質問者:あるチベット人のヨーギは、神は目的をもって世界を創造し、ある計画にしたがって維持していると書いています。その目的は善であり、計画はもっとも賢明なものです。
ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」p.141
マハラジ:それらはみな一時的なものだ。私は永遠性について語っている。神と宇宙は来ては去っていく。アヴァターラたちは終わりなき継続性のなかで次々と現れ、最終的に私たちは源に帰っていく。私はすべての神と彼らの宇宙、過去、現在そして未来の時間を超えた源についてのみ語っているのだ。
ニサルガダッタ・マハラジが質問者に返した答えは、ジュワル・クール(チベット人)の宇宙論を否定するものではない。彼は「宇宙的周期の正しさ」ではなく、「その正しさが成立する次元の相対性」を指摘している。簡単に言うと、永遠性と周期性は同一座標上にない。この話はマンヴァンタラ(意識とエネルギーが形態を通して展開される周期)とプララーヤ(その表現が終了し源へと回収される周期)という周期性の概念と、すべてに浸透する源である永遠性の違いを説明するものである。マンヴァンタラとプララーヤは時間の中で交替する状態である。人間で言えば睡眠と活動である。一方、マハラジが語る永遠性は、時間そのものが成立する以前の実在についてである。人間で言えば自我と真我である。永遠性は一時性の埒外にあり無関係であるが、同時にすべてに浸透するものである。この理屈では説明しにくい話、語れば必ず歪む話を真に理解するためには永遠性をまず知らなければならない。
神の目的に関して言えば、マンヴァンタラで得られた経験が、プララーヤにおいて沈殿・統合され、次の顕現でより高次の秩序として再出現することと関係している。我々の瞑想に関して言えば、人格と時間の活動が静まった結果、永遠性が妨げられずに理解されるようになるが、その永遠性と、時空間内における神の目的や計画の話は、次元の異なるもの、並列で語られるものとは異なる。スクリーンの上で何の映画が映し出されようとスクリーンには無関係であるが、スクリーンなしでは映し出され得ない構造と似ている。
この話は672夜を誤解なく読むためにも重要なものである。極めて正確に表現するならば、永遠性は、多様性や一時性を生み出した原因ではない。多様性や一時性が「原因をもつかのように見える」という構造そのものを可能にしている実在である。永遠性が唯一であるという意味は、多様性と一時性を包含するという意味では実際はない。多様性や一時性が永遠性以外であるという誤認が成立した地点においてそれらが現れただけである。これはイリュージョンに関する話であり、最も歪みなく表現しようとしたものである。
マハラジは「何が実在か」を語っている。チベット人(ジュワル・クール)は、「実在が顕現の中でどう機能するか」を語っている。前者は存在論的終点を示し、後者は宇宙的奉仕の出発点を示す。したがって永遠性を知り、永遠性そのものとなったアヴァターラたちですら、終わりなき継続性のなかで次々と現れ、最終的に私たちを源に帰すために働く。マハラジの言葉をそのまま受け止めて、完全な終点とみなし、神や神の計画といったものは錯覚の話だと安易に考えるならばそうではない。これらはいわば、位相や視点の違いである。もし我々が永遠性を理解したならば、ニサルガダッタ・マハラジが他の者たちを導き真我を悟らせることだけが喜びになると言ったように、神の意志に適ったものだけが喜びになる。神の意志や法則との一致ゆえにである。違いは、それまでのように「私が行為している」という錯覚と感覚がない点である。ゆえに限定されておらず、自由で至福なのである。これは顕現と根源を超えた永遠性を常に我として自覚しているがゆえである。
