永遠性からは埒外であるもの、つまり一時的なものに関して、永遠性は「それは私とは関係がない」という状態である。前回の記事で言えば、ニサルガダッタ・マハラジは、チベット人の話と自身が無関係であることを知っている状態である。永遠性は、意識も含めて、あらゆる顕現から自由で無関係な実在である。
672夜の文章の良くないところは、書いている媒体が秘教的な概念を梯子にして昇ったがゆえ、慣れ親しんだ秘教概念で説明しがちなところである。一方で、完全に真実から語るならば、基本的に語ることがない。もし語っても、それは永遠性の境地からの話であり、初心者にとっては無意味、意味不明、自分に役立つものではない、と感じられることになる。したがって語りとは、一時的なものの一時的な実在性を許容したうえで成立させるものであり、「事実ではないが、一時的には事実であるため、今は目をつむってその線で語らねばなるまい」というものである。とはいえ、文章に永遠性からのものと、一時性からのものとが混同することは避けられず、ここに混乱の危険性と可能性が孕み、一時的に永遠性を知ることを難しくさせる虚構でマインドを覆うことになる。
「事実ではないがその人にとっては事実であるため役に立つ語り」と、「全否定して上からだけ語る本質的には役立つことのない語り」の比率の塩梅という問題である。分かりやすく言い換えると、ジュワル・クールとニサルガダッタ・マハラジの塩梅である。たとえば、悩みがある人には、その悩みに合わせて話さないと会話にならないし役にも立たない。もはや自分が悩みと無縁だからといって、悩んでいる人に「悩みは錯覚」の一言で片付けることは役に立たない。悩む者には、悩みの解決法が必要である。それが語られるとき、悩みが完全に錯覚だという境地に至るまでは、その人の一時性に則った語りを交えることが親切である。ただし永遠性と織り交ぜて語られねば真の解決つまり錯覚の切断には至らぬため、ここに一時的なものと永遠なるものとの混在が生じるということになる。
たとえば、エネルギーとフォースの話。「弟子がエネルギーとフォースを識別するようになり、平均的な人間のように概念や観念を扱わず、エネルギーでフォースを扱うことが日常になった場合、彼はそれまで自身を条件づけてきたものを、逆に統御する側に立つようになる」という文章は事実であり、きわめて実践的で役に立つどころか夢のような話であり、実際に弟子はこのような生き方をしている。イニシエートはどうか。つまり永遠性にあらゆるものが没し去った後はどうなのか。永遠性からすれば、エネルギーとフォースの話は、実のところ埒外である。エネルギーとフォースというオカルト的な、つまり目に見えるものの背後の、原因の世界の話もまた、永遠性からすれば無関係な領域である。永遠性はその無関係な領域を可能にさせている根源であるが、顕現の界層――それがいかに高位の界層であっても、永遠性はそれらを超越した、それらが触れることすらできない唯一なる実在である。
かつて、道をある程度辿り、多くの秘められたものを識別できるようになったと自負していた頃、瞑想中に聖人と数人の弟子たちが現れたことがある。聖人は「聞きたいことはあるか」と言った。「私の瞑想は十段階でいえばいくつまで進歩したか」と私は問うた。すると、「一だ」と言われた。十段階の一である。私は高い数字を期待していたゆえ、虚しき痴れ者よ去れと言ってこの現象を否定した。翌日、なぜ「一」であるかを分からせるような現象が日常を通して起きた。それはあるイリュージョンに関するものだった。どのイリュージョンもそうであるが、真に追い散らされていない場合、知っているものも歪むのである。たとえば真我を知っていても、つまり真我であっても、この世の無数の魂たちがそれを歪んで認識しているか無意識であるかのように、完全に純粋な視野の達成までの道のりがまだ非常に長いことを教えられた。イリュージョンが真の意味で終わるのは第六イニシエーションであると秘教徒は言う。つまり、「一」と言われて当然であることを平伏して理解した。
永遠性に関する議論もこれに似ている。それは認識されるようなものではないのである。それを認識できるようになる段階はある。しかし、認識される客体と認識する主体が同一のものであるという境地まで脱さねば、それは真に純粋に理解されたとは言えない。
前の記事は意味が分からないと言われた。それは私の意図するところのものではない。理解へ導くものでなければならない。語れば歪む文章、そして概念の寄せ集めを通して、すなわち一時性を通して、真の理解へは導けないが、その手前までは可能である。そこから先に進むときは、672夜の話も含めて、すべてを捨て去らねばならないときが来る。つまり、どのような見地からも見てはならない。それそのものでなければならない。そして、最初から我々が永遠であることを理解するとき、それ以外の事実などありうるであろうか。
