食べすぎるなかれ

意識における真我の顕現を妨げるものとして、大食がある。多く飲み食いをしながら、深い意識に入ることは不可能に近い。ここを見落としている者がいるため、やや詳しく取り上げる。

大食というと、ダンテの神曲であったり、カトリック神学の禁欲的なものを思い浮かべるかもしれない。あるいは、旧約聖書ならば 「暴食の者は貧しくなり、酒を好む者はぼろをまとう(箴言23:21)」と言い、コーランならば「食べなさい、飲みなさい。しかし浪費してはならない。アッラーは浪費する者を愛されない(7:31)」と言い、ラージャ・ヨーガのようなものでも戒めがあり、広く一般的に「罪」であるという認識を古来より人々に印象づけようとしてきた形跡があちらこちらにある。未だに、ラマダーンのように宗教的に押さえつける風習をただ行っている者もおれば、肉体的な美のためにダイエットをする者もおり、また病気を引き起こさないために断食する者も多い。

現代風に簡単に言えば、「消化には大量のエネルギーを使うため、そこにエネルギーが使用されるならば、エネルギーが神のために使われることができない」とでも言えるだろう。食べることに似たような肉体の快楽の「罪」として、男性であれば、気を付けてもらいたいものに、射精がある。これも昔から広く禁欲の対象とされてきたし、肉欲的な快楽を慎むということを実践してきた宗教家や神秘家は多いが、彼らは単に快楽は罪であるという道徳観から「抑制」という歪んだ解釈へと堕落しており、心の中ではそれを体験したいという願望が常に抑圧されており、したがって病気など何らかのかたちで、いわば内部で腐敗したエネルギーが現象的に悪い作用を引き起こすことにしばしばなる。彼らは、苦痛が霊的な間違いの警告であることを知らず、宗教的ないしは通俗的な倫理の道徳観から汚らわしい願望を満たさずに抑え込むか、己の奔放さに開き直り女性の肉体や卑猥な動画のようなものを使って射精欲を満たすしかやりようがない。

これらは、肉体的な「罪」ではなく、肉体のエレメンタルを満たすためのものであり、霊的なものが顕現するのを妨害するという意味において、霊的に罪という解釈があるだけである。ただ肉体に生きるか霊に生きるかの分かれ道で、方法が分からず、魂が下か上かの境目で、下に引っ張られるしかないのが現状であり、これが人類のほとんどの人――肉体を統御できていない人(第一イニシエーションから遠い意識たち)の悲惨な現況である。家の近所の者に参考になる男がいる。私より二十個ばかり年嵩だが、「人生が楽しくて仕方ない。自分が好きで仕方ない」と口癖のように言うのである。だから、その楽しさの秘訣は何かと私が問うと、「食う・飲む・やる」の三原則に従って生きることであると彼は言った。全く悪い者ではなく、話が面白いのか、しばしば人に好かれているおじさんだが、霊的には一時的にではあるが絶望的である。したがって、ほとんど意味のない生涯であるため、あまり長生きすることはない。彼は「毎日楽しくて仕方ない」と言うが、基本的にイライラしていることが多い。何日か前、今日はいつになく苛立っているがなぜかと訊いたら、「腹が減って腹立たしい」と言うのである。ならば食べてくださいと言ったら、そうだねと言って笑っていた。

霊的な探求者が、このような生き方をすることが、全く意味のないものであることは理解されるだろう。長年瞑想している者で、深い意識に入れないという方が最近いた。彼の弱点は、大食を貪ること、つまり過度な食欲がどこから来ており、何に起因しており、どのようにしてそれに振り回されずに済むかを探求しないことであった。腹が減ったら食べる。食べるからもっと食べたくなる。そのような悲鳴を上げる肉体を使用しながら、一方では己に神を引き入れんと瞑想しているのである。ある程度までは成果は出るだろうが、もっと深く霊的な意識に入りたいのならば、肉体の欲求を満たすことを控えないといけない。先ほど話したおじさんのように、「食う・飲む・やる」というのは、だいたい連結している人が多い。その代償として貴重なエネルギーが浪費されるのである。下位のそのようなエネルギーは、上に引き上げるというのがあらゆる霊的な教えの基本である。

食欲などは、錯覚だということを覚えておき、それを内側で統御する術を知り、存在しなかったことを理解してもらいたい。少食な者は、それだけ発達も速い。だから食欲があるとき、また強まるとき、それがどのようなときであるかをまず確認してもらいたい。何かに集中しているときは空腹を感じにくいだろう。その逆に、集中するものがなく、暇なときは空腹を感じやすいだろう。暇とは、外側の何かで自身つまり諸体のエレメンタルを満たすことが出来ない状況のことを指す。したがって最も安易な満たし方は、肉体的な外的快楽である。食べたり、飲んだり、性交したりというものである。これは肉の奴隷の状態であり、抑制することには何の意味もないが、その種の快楽を満たしたいという願望つまりフォース、あるいはフォースが分からない場合はその感覚を見てもらいたいのである。我々は至高なる霊であり、神であり、真我であり、言葉は何でもいいが、肉の欲に振り回される者ではありえない。その欲求のフォースをただ見るならば、即座に存在しなくなるものであることを、確認してほしいのである。つまりはっきり言えば、霊以外のもので満たせるものなどないのである。ゆえに、人間は肉体的、感覚的、情緒的、感情的、メンタル的な、つまり諸体のエレメンタルを満たすことだけに精を出して(エネルギーを使って)いるのである。完全に外向きであり、つまり知性が無効化されており、衝動に振り回されるがままであり、衝動自体を見るということがないのである。

理解してほしいから簡単に言い直す。食欲があるなら、その感覚を見る。見た瞬間に、あったはずの食欲などなくならないだろうか。このとき何が起きているかを言う。外の何かで諸体の欲求を満たそうとしていたときに、そのような欲求や動き自体を上から見たとき、エネルギーは思考に従うという法則通り、ただ見るならば、注目を向けた対象のあらゆるフォースは、エネルギーそのものによって統御されるのである。雲散霧消する。欲望というものは錯覚であり、全く存在していない。エネルギーつまり霊によってしか、我々は充足できないし、真に満ちることはないことを知らねばならない。これが分からないならば、外の何かで満たし続けるしかないのである。それが悪循環を生み出し、つまり破壊的な作用を長期的ないしはゆるやかにもたらすのである。

以上を、宗教家や神秘家のように、安易に禁欲という概念で解釈しないように気をつけてほしい。存在するものはすべてエネルギーであり、この世ではエネルギーかフォースである。目に見えるものであろうと、食欲などの感覚的なものであろうと、変わりはない。それはただのフォースであり、あるいは波動であり、我々自体は、もっと精妙な、高振動な波動であり、低い波動は高い波動で常に対処できるのである。見えるものや感じるものは結果だが、その背後の波動があるゆえに、見えたり感じたりできることを知り、食欲のような結果ではなく、それ自体の波動だけが働きかける対象であるというアイディアに至らねばならない。これがあらゆる魔術つまり人々にはマジックのように見えるものを可能にさせるトリックである。これは全く禁欲ではなく、オカルティズムである。つまり隠れているもの、結果ではなく原因であるものに働きかけるという基本的な話である。

これを理解したならば、自身が非常に力のある存在であることを知るだろう。この世のものに振り回されぬという意味である。今回は分かりやすく食欲で話したが、原理はなにごとも同じである。これについて分からないことがある人は、私に質問してもらってもかまわない。理解しなければならないことを、なぜ疎かにできるであろうか。

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