なぜ人は「する」のか。強迫観念と言ってもよいだろう。「する」必要がないことを人は知らない。知らないから抵抗する。流れに逆らう。なぜなら、「自分」がしているという感覚、しなければならないことがあるという信念を生きているからである。例えば瞑想を「する」。瞑想は行為や行為者から自由な状態の彼方にあるが、われわれは自分として瞑想する。「する」は、何であれ真我の否定である。そのような無知の根底にある諸悪の根源は「私」という一人称感覚である。分離意識である。この状態からわれわれは雑念をしずめようとしている。なぜそんなことを「する」必要があるのか。本で読んだからだろう。信頼できる誰かから、瞑想とはそのようなものであり、そうするべきものだと教えられたからだろう。この段階を卒業する必要がある。誰の言葉であれ、誰の話であれ、それは本物へと導かない。ただの想念である。
高位の意識状態(それを意識と呼ぶべきかは疑問だが)を知ったあと、想念が限定であり苦痛であることをわれわれは知るのである。それゆえに、高位への焦点化から離れたくないがために、われわれはマインドを統御するのである。本で読んだから、あるいは人に聞いたから、自我の位置から高位の状態の真似事をしようとしても不可能である。なぜなら、人々が目指している状態は、その自我が不在の状態、つまり高位の存在によって統御されている状態であり、そこに自我の行為は存在しえないからである。だから、なぜ「する」必要があるのか。ここが最初に間違いやすいところである。
真我もしくは魂は、「する」に興味を持っていない。自我だけが「する」。「する」よりも偉大なのは、単なる認識である。ただの目である。価値観や個人性に惑わされないただの気づきである。それは人間という無意識もしくは眠りから醒めた状態だが、しかしそれよりも偉大なのは、単なる存在である。しかし、われわれはすでに存在している。存在は最大の純粋である。存在だけが充足である。「する」は存在を苦しめる。ところが、自我意識のとき、人は何もしないことが逆に苦痛である。なぜか分かるだろうか。自我を動かそうとする力の方に生きているからである。自我として動かす力と、すでに充足している存在の力を識別できるようになることは一つの目標である。われわれは前者の波動をフォース、後者の波動をエネルギーとして識別している。どっちで生きているのか。逆転し、錯覚の方を生きることが当たり前になってしまい、そのような催眠めいた想念を疑わなくなり、ゆえに人はただ動かされているのである。ただ生きているのである。それは眠っているのである。
マインドが戦場となるのは、アストラル界の戦場で勝利した後である。親の葬儀よりも瞑想が重要だと言ったら家族や人類は拒絶するだろう。しかし、われわれは一切の情愛や情緒から自由にならねばならないのである。葬儀に参列するのは自由だが、瞑想状態から外れて情に溺れてはならない。誰が死のうが、つまり肉体を脱ぎ捨てようが、何の関係があるだろうか。消えたり変化するのは非実在であり、生命は生きている。生命は死なない。錯覚に惑わされてはならない。
通常、人々は、人であるかぎり個人的なことに興味を持っている。自分としての生に夢中になっている。苦しいとか悲しいとか寂しいとか楽しいとか催眠されている。どっちにせよ、全部それらは苦痛である。瞑想を続け、魂と接触を開始するにつれ、それら感情や欲求などの感覚とは徐々に絶縁状態になるだろう。そして、良いも悪いもなくなるだろう。なんであれ、どっちでもよく、そもそも関係していないことを魂として認識しているだろう。このとき、まだマインドは活動しており、したがって限定されている。しかし、アストラル界、つまり欲求や情緒の世界と関係なくなるならば、彼つまり融合を学んでいる魂にとっての問題は、絶えず活動しているマインドという魂という純粋さへの妨害活動になる。このとき、彼つまり魂と人間が半々に融合している者は、何もしないことを選択する。つまり、自我や個人を動かす方の力とは関わらず、したがって「する」が自動的に否定される。このようにしてさらに魂意識へと前進する。波動を魂のリズムへと絶えず整列させることが残りの自我が与えてくる苦痛からの解放にして唯一の安らぎとなる。
これは”高位の行為”である。低位の行為は去り、高位のみが行為する。天才であり、不眠不休の奉仕者はこの方である。あまりに知恵であり、あまりに教師である。この方に生きるとき、流れは自然になる。自我もしくはマインドという不自然は正される。この方のなんと美しきことか。なんと愛であることか。この方に生きることがわれわれの喜びである。さしあたって、このような意識に瞬時に入れるようになってください。これが、このような文章を書かせている力のお願いである。なぜなら、ここまでくれば、もう大丈夫だからである。まだ三界で達成されゆくことはあるだろうが、それは融合した魂である真の霊的自己の自然な流れである。
修行者は「する」ことに忙しい。やがて、それをしているのは自我であるという当たり前の間違いに気づくだろう。そこでよく質問されます。ではどうすればいいのかと。また「する」である。自我は、「する」ことしかできないから、何かを「する」ことで「しない」状態へ到達できるはずだと言うのである。好きなように自我は「する」だろう。そうさせておくより他にない。したいならするだろう。私もまたあらゆることをした。すればするほど、その無意味さを理解するに至った。こうして、ゆっくり間違いを学んでいった。
真我は、その「する」自我とはいずれにせよ無関係のままである。しかし何も不安に思ってはならない。思っていいが、その人と関わらないでもらいたい。しかしその人なのですと言うならば、その人として瞑想するといい。数年間、瞑想を本気でやる人は多いが、人生をかけて瞑想する人は少ない。後者であるならば、自我の意識からすれば、効果や成果や前進や進歩はゆっくりであることを受け入れて、無欲に、ただ誠実に生きるべきである。つまり、進歩などのために瞑想しないことが重要である。そんな錯覚はただの苦痛である。おのれ、つまりすでにして存在であることに誠実であること、頭であれこれ考えて模索することを控える落ち着きが、真実を見えなくさせている霧や靄を払いのけ、知るべきことを教えるだろう。
自我は弱い。したがって師や恩寵を求める時期がある。やがて失望と共に、独立するだろう。誰の言葉も、自分の信じたことも、全部嘘だとみなされるようになるだろう。なぜなら、それらは想念だからである。なんら実在と関係がない。なのに、想念と関わる必要性を信じる者の、なんと多いことか。どんな想念も自我の娯楽でしかない。そのような娯楽は真我をたえず無力化する。強い者は、誰の中にも今おられる。しかも、今、気づかれるのを待っておられる。その手伝いをしようと働きかけてさえおられる。彼を見つけ、彼に従いはじめるやいなや、もはや望みではなくなった進歩というものが勝手に急速化する。世の中では、この方は無名である。内なる霊的自己は知られていない。なぜなら、みな自我を生きているから。分離することを選択しているから。自分を世に奉っているから。これらの経験がしだいに不必要になるだろう。なぜなら、われわれは若くないからである。かなり老いている。こうして、自我に忙しくなくなるだろう。魂に安らぐようになるだろう。自我の元気ではなく、真我の至福が内に平和をもたらすだろう。ラジャスやタマスはサットヴァに席を譲るだろう。この平和を、万人のものにしなければならない。自分だけの進歩なら、それはおそらく悪の所業である。