魂とマインドの瞑想について

個我を超越した証しである喜びや至福を知る手段として日々の瞑想がある。ゆえに再び、瞑想そのものについて語りたいと思う。一般的な瞑想の定義は、何らかの種子に対してマインドを固定させ続けるといった集中に関するものである。私はそのようなことは一切しなかった。言い換えると、それは真我への直接的瞑想ではなく、自我とマインドが行うことである。次の引用を再確認してもらいたい。

瞑想するのは魂である。瞑想は積極的な活動であり、消極的な状態ではない。瞑想の名の元に行われている活動の多くは危険で無益なものである。なぜなら、統御しようとしているのが物質界の人間であり、彼の努力は脳を静めることに集中しているからである。彼は脳細胞を静めようと努め、それを消極的で無活動な状態にしようとする。しかしながら、真の瞑想は魂とマインドに関するものである。

アリス・ベイリー「魂の光」p.402

世の中の瞑想のほとんどが正しい瞑想とは言えない理由がここにある。すなわち、瞑想法を教える者がまだ魂ではなく自我(マインド)であり、融合していないのである。よって、自我で行う瞑想がこの世の主流であり、そのような「瞑想の名の元に行われている活動の多くは危険で無益なものである」。

簡単に言う。マインドを通した意識であるとき、我々は肉体意識であり、この世を見たり経験したりすることが可能になる。逆にマインドから意識を抽出させたとき、我々は真我にして神意識であり、これが観照つまりサマーディーである。

ならば、マインドで行う瞑想が無意味であることは自明である。マインドを静かにさせる、より高位の力が必要なのである。この力とは、法則と一致した魂の意志であり、自然なエネルギーの状態である。我々の世界や肉体意識を可能にしているのは、このエネルギーとは逆のもの、このエネルギーと注目を反対方向に向けたときに生じる結果である。瞑想が志すものは、瞑想を始めた個人が魂のエネルギーや魂の意志と一致することで魂そのものになり、つまり融合し、融合した高位我という統一体からエネルギー的にマインドに直接向かい続けることである。マインドに対する魂の働きかけである。この魂の集中によりマインドが超越され、いかなる努力も存在しない魂の界層へと意識が抜け、解放された新たな視野と世界が知られるようになるのである。これが神の王国である。

672夜の読者の報告によると、魂のエネルギーはすでに流入していると主張する方々がおられる。マインドが、上から流れ降るエネルギーを、目覚めた意識で完全に頭部内に行き渡るさまを認識している状態である。この後に何をすればいいか分からない方が大半であるため、そこを抜けきれるように解説しようとしている。

魂のエネルギーつまり波動は、低位諸体の波動を制圧しようとしていることを理解するだろう。このとき、エネルギーとフォースの違いが明確になるはずである。厳密に言えば、ここでは、魂のエネルギーと諸体のフォースの違いである。このとき、我々は魂の方であり、諸体に働きかける側であることまで認識されるかもしれない。まだそこまでいかない場合は、例えば第二イニシエーションを受けるまでは、自身であると感じるアストラル性質を魂的に扱う。いくつか前の記事で引用した読者の方は、魂のエネルギーを自身の情緒に差し向けたとき、それが破壊されることが事実であることを確認された。このように、自我意識のまま、アストラル界に魂のパワーを解き放つ能力が開花するのである。このようにして、やがてアストラル界は制圧され、アストラル体は以前のような情緒的活動をやめて、高位の愛や喜びといった情緒を超えたものを映し出すことのできる感覚的鏡になる。それは嵐と闇によって荒れ狂っていた水面の波が完全に澄んで穏やかになり、晴れ渡る空を映し出すことが可能になり、水面が太陽の光と愛と喜びを映し出しているようなものである。

しかし弟子は気づく。その太陽を見たり、喜びや愛といった太陽天使の特質を認識している自分がいることに。それは依然としてマインドを通して気づいている自己である。このマインドの活動があるかぎり、喜びや愛は不完全であり、むしろ苦痛の色を帯びていることに気づかないではいない。こうして、半人前の魂である弟子は、その自我と魂の両方を認識する意識として、方向転換し、マインドそのものに向かうようになるのである。それは読書で得た知識からではなく、エネルギーとフォースの不一致に対する霊的直観から来るものであり、また次に即座にこの認識により不一致を一致へ調整することで、自身が再び法則内におさまり、今度はアストラル的湖面ではなく、メンタル的な水面までをも静かで穏やかなものにさせ、純粋で透明なものにすることができていることを知り、したがってそれが正しい状態であることを認識するのである。この状態を維持するためには、逆にその状態を維持させている魂によるメンタル的な統御状態――メンタル体そのものに真正面から向かうこの上なく勇壮な魂の行進が栄光的に維持され続けられねばならないことを知る。そしてこれは、目を明けていようと、あるいは歩いていようと、日常で維持できる魂的態度であることをやがて見出し、かつては自我であった者ですら、それが当たり前の自然な意識態度になるのである。これが24時間瞑想である。

以上の過程には、当然ながら、一切自我が関与する余地はない。魂の意志と一致しようという、認識された知恵を行使しようとする最初の瞬間においてのみ、自我は開始に関与するだろうが、この過程全体を推し進める力は、我々の自我の意志とは無関係に訪れる力であり、それ独自の周期と規律と強弱と計画を保持するものである。このことを知り、自我は、急いで事を成そうと思わないことが重要である。あるいは、今日の瞑想はうまくいかなかった、などと思わないことが重要である。うまくいく時といかない時が交互に訪れ、進化は法則に従い螺旋的であることを知り、パワーが訪れずに瞑想できないときは休憩し、個人的な趣味や娯楽によってレクリエーション(re+creation)を図るべきである。

魂と関わるようになった者は、もはや知識や概念の世界からは撤退しなければならない。以上のような話は、知的な理解ではなく、自身に対する霊的応用の過程で知られるものである。この過程全体を統括する教師は魂であり、分からないことは魂を介してマインドを静めることで直観的に得ていかねばならない。そして答えと符合したとき、これらの話が言わんとしていたことを、おのがうちにて実際に知るのである。

まだ魂やそのエネルギーが訪れていない方は、あるいはそのような意味のある期間は、別に習得する事項があるため、このような話よりも当面の目標に集中していただきたい。それはおそらく、忍耐であり、諦念である。なぜなら、このちょっとした解放つまり魂が来る前の闇夜の期間は、極度の苦悩の時期だからである。というのも、我々はそのとき、何も知ることが許されないし、道の先を歩いている者が語る内容の何についても分からないからである。当然ながら私もその期間を耐え抜いてきた。よってその期間を私はしばしば「血だらけ」と表現する。しかしながら、「血」は「知」に置き換えられるようになることを知ってもらいたい。犠牲によって流した血は、必ず知としてより高い螺旋状にて再創造される。こうして「知だらけ」になり、我々は無知から卒業するのである。

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