普通の人は考えることで案出する。瞑想者は考えない。人々が使用する脳や低位マインドが静かなときのみ、高位マインドと直通できることを彼らは知っている。人間が「知る」のは、高位マインドの抽象的アイディアつまりまだ具体的な形態を纏っていない比較的純粋な想念以前の知的単位に接触し、それを個人的に低位マインドで解釈したときのみである。したがって、すべて知ることは解釈であり、イリュージョンである。だから「知る」ことは瞑想に何の関係もない。知られたものは、ただの想念である。したがって人間の知識はすべて錯覚であり、霊的に不必要なものである。知識は瞑想に通用しない。逆に言えば、知識は、現象の世界で活動するときのみ必要なものでしかない。
人間は考えるが、考えていない。それは条件づけられた想念である。低位マインドが統御されたとき、つまり何も考えないとき、真に思考することが可能になる。したがって真の思考は直観的なものであり、全知の性質を帯びている。あとはどれぐらい通路つまり秘教徒がアンターカラナと呼ぶ「橋」が発達し純粋であるかに依存する。アンターカラナは、我々の人間意識と魂との間に最初に橋を架ける。これが前半であり、後半は、魂を介して人間の低位マインドと高位マインド(それは霊的トリアッドの最低位の様相である)の間隙に橋が架かる。これは感覚的には、橋ではなく貫通であると思う。貫通の手段が集中つまり霊的意志である。意志つまり第一光線は破壊のエネルギーであり、あらゆるヴェールつまり形態を集中もしくは照射により破壊する。長きに渡る転生周期を通し、自らを限定し、自らを条件づけてきた物質の質料に対し、閉じ込める形態を破壊することで直接接触するようになり、神つまり原理に基づかない低位フォースは高位の振動の賦課により変性され、救われ、清められ、高位へと引き上げられる。
肉体とアストラル体が統御された後、メンタル体の統御が可能になる。肉体とアストラル体のフォースは、外へ意識を向けたまま可能であった。メンタル体の場合、大元である「私」つまりそれまでとは反対方向へ意識が向けられねばならない。これは意識的な作業である。この意味において、アンターカラナの後半は、魂とパーソナリティーの共同作業である。高位のリズムつまり振動率を、低位メンタル体に賦課するのである。このような理屈を説明してもまだ無理な人へ向けて、「私は誰か」とか「私は在る」などの真我探求が考案されてきた。神秘家は、このとき何が起きているのか、また何の必要があってそうするのか分からずに行う。エネルギーやフォースを認識しておらず、漠然とした神や魂や真我という想念を扱うだけである。そのため失敗するのである。意味が分からないため、もったいないことに、すぐ止めてしまうのである。どの知識も想念も理想も、実在とは関係がない。必要なのは、条件づける質料のフォースを、高位のエネルギーに置き換えることである。
安定した波動を確立するのには時間がかかり、それを打ち砕き、別のさらに高い波動を賦課するのにも同じだけの時間がかかる。成長とは、破壊するために建設し、後に解体するために構築し、後に崩壊させるためにあるリズミカルな過程を発展させ、古いリズムに新しいリズムへとその座を譲らせる長い過程である。
アリス・ベイリー「秘教瞑想に関する手紙 」p.107
このようにして、高位亜界の物質を諸体に組み込むのである。そして意識は徐々に変容しゆく。メンタル体へのエネルギーのリズム賦課もまた、時間のかかる過程である。何をしているのかを理解し、メンタル体自体に高位のエネルギーを調教させ続ける必要がある。それはちょうど、子供が向かいあって縄跳びをするようなものである。新しいリズムで振動させることを体で覚えさせるのである。マインドつまりマインド・スタッフ(チッタ)は、少し気を抜くと元のリズムつまり想念を絶えず纏う動きに戻ってしまうため、徐々にマインドを高位の振動に慣れさせ、低位の粗雑な振動を苦痛に感じるまでに成長させ、高位の振動が平和であり美と調和であることを理解せねばならない。すると、必要がないなら考えないようになるだろう。つまり想念はなくなっていくだろう。わたしじしんで在ることが自然になるだろう。これが習慣になったとき、あるときいきなり何もできなくなるだろう。すべてがぴたりと止み、集中状態がやけに簡単(というよりもそれが自然)になり、焦点化の固定が確立され、こうして壁という壁は消え失せ、閉じ込められてきた低位我の意識限定は乗り越えられるだろう。