魂の光を待つとき

以下の文章を理解するためには、エネルギーとフォースという概念の予備知識が必要であるため、必要であれば「エネルギーとフォースの違い」を参考にしていただきたい。

人の心は、荒れ狂う嵐の海にも似て、波立つ感情、渦巻く欲望、手の届かぬ空を映す水面のきらめき、その虚無と混沌が交錯し、調和を忘却させる不可思議な性質を帯びている。それはわれわれが人間であるかぎり避けられない性質であるが、大海の深奥には、いまだ生み出されえぬ至高の力が秘められている。多くの者はその力、その静寂にたどり着く前に、苦しみの嵐に飲み込まれ、漂流し、助けが来ることを諦める。

この嵐に耐えきったとき、われわれは魂の光に照らされる。魂との連結は、瞑想という内なる旅によって拓かれる。魂は高みから輝く太陽のような存在だ。個人の心を光で照らし出し、波立つ水面を静かにさせる。そして美を認識させ、美のなかに愛と喜びを輝かせる。瞑想は魂の光を迎え入れる由緒正しき鍵であり、われわれの意識を大海の深奥へと導く最も身近で最も確実な羅針盤なのだ。

魂の光は、われわれの問題にただ触れるだけで変容を起こす特別な力を持つ。それは苦悩や悲哀、欲望や執着といったアストラル界のフォースを、瞬時に高次のエネルギーへと昇華させる。このプロセスの核心は、「見る」という魂の行為、内なる視覚にある。荒ぶる風のような激しく揺さぶりをかけてくるアストラル界のフォースであっても、ただ見られるだけでその性質を瞬時に変えうるという事実は、もっと世の中に知られ、もっと証明されゆかねばならないものだ。嵐の海も、太陽が現れればその荒々しさを失い、静かな輝きを取り戻す。それと同じように、われわれを取り巻き翻弄するフォースも、魂の光にさらされるとき、その力強さを一挙に失い、静穏で喜びにみちたエネルギーへと解放される。

「見る」という行為には、何の努力も伴わない。見る者はそのとき、個人ではなく魂と融合した個人であるゆえ、ただ純粋に傍観するだけなのだ。この視覚的行為において、行為者はおらず、ただ魂を媒介にした霊のエネルギー――普遍的な光そのものが働き、フォースを変容させるのである。われわれの役割は、光を遮らず、それをありのままに受け入れ、またその意志が命ずる意図をくみとることで眉間のセンターから方向づけるという高位の行為を通じて神性が作用するのを許すことだけだ。これにより、われわれは愛に満たされる。喜びに満たされる。しかもごくごく静かに。こうして苦しむ能力が失われる。美と喜びに満ち、愛するという生命の一体性に基づく能力が発達する。これは現代の人類に必要とされる貴重な能力であり、私たちがその神聖な力の媒体になったことを意味する重要な局面である。

このプロセスは、人生の苦しみの中に希望をもたらす。アストラル界のフォースに支配されている限り、人は波立つしぶきに囚われ、その嵐の中で永遠に生きるかのように感じるだろう。だが、魂の光がその荒れ狂う水面を照らすとき、嵐の本質が変わり、海は静寂を取り戻す。そしてその静寂の中で、内なる光が魂と個人を結びつける新たな調和が生まれるのだ。

この調和を求めて歩む道には、暗闇の時期が必ず訪れる。魂の光を感じる前に、われわれは「魂の闇夜」に立ち入り、身じろぎもならぬ極度の苦悩、孤独、絶望に満ちた周期を経験する。この時期には、魂との接触が感じられず、光の不在に心を支配されるものである。しかし、この暗黒は一時的なものであることを忘れてはならない。むしろ、この時期は魂の光がわれわれに作用し始める前兆であり、古い価値観や執着を浄化するために必要不可欠な過程なのだ。

この時期において最も大切なのは、内的な静寂を保ち続けることだ。瞑想を中断せず、たとえ何も感じられなくても、みながそのような時期を辿ってきたことを思い出し、忍耐強く光を待つことが求められる。また、過剰な自己批判や感情的な反応――つまり自己劇化に巻き込まれることを避けるために、自分自身とその定められた運命を穏やかに受け入れることが重要である。この時期に心を安定させる実践として、以下の方法が役立つだろう。

  • 短い時間でも、毎日瞑想を続けること。内面的な変容は継続によってのみ現れるため、習慣として忍耐強く取り組む必要がある。
  • 低次の欲望、つまり衝動や感情に根ざした活動を慎むこと。余裕があれば、その時間を霊的で高貴な書物を読むことに充てること。
  • 他者を批判したり、恨みや憎しみの感情に囚われた人物――低位の波動を発する人物や、そのような意図を含むニュースや情報には一切関与してはならない。もしそのような人が身近にいて、有害な話題を持ち出した場合は、無言のまま静かにその場を離れるべきである。こうして常に無害の側に立つ必要がある。
  • 瞑想で得た知識や洞察を外に向けて発信すること。話したり書いたりすることで、流入したエネルギーを効果的に流出させ、正しいエネルギーの循環を促進するとともに、エネルギーの内的腐敗を防ぐことができる。多くの初学者がエネルギーを溜め込むことで病気になる傾向がある。
  • この時期は失敗を繰り返す時期であると心得ること。過度に自分を責めず、自己憐憫や自己劇化の仕組みを見つめる心の余裕が必要である。よって、静かな休息やリラックスする時間を大いに確保すること。心の安定がエネルギーの循環を整える助けとなる。
  • 時には羽目を外すこと。大きく落ちた波動には、それを引き上げる力が潜むからである。ただし、初心者には慎重さが求められる。波動を落としすぎると、まだ魂との接触つまり魂の引力が弱いため、その低波動に飲み込まれ、習慣化して戻れなくなる危険があるためである。

魂の闇夜は、明け方の前の最も暗い瞬間にたとえられる。つまり、光は確実に訪れる。魂の光に触れるや否や、その苦しみは霧が晴れるように消え去る。そして、アストラル界のフォースは調和され、人生そのものが新たな次元に変わる。

これが、魂の光の力だ。瞑想を通じてその光を迎え入れることができれば、私たちの感情的な嵐は瞬時に収まり、生命そのものが穏やかな輝き――愛や喜びへと昇華される。瞑想を続け、「見る」という魂の行為を理解すること。それは魂を介して頭部のチャクラから霊のエネルギーを引き込み、そしてまた眉間のチャクラからアストラル界のフォースを高次のエネルギーへと変容させる偉大な奉仕の道なのだ。

希望はここにある。暗闇の中でも、その光はすでに私たちの中にあることを信じてほしい。魂の光はいつもわれわれの内にあり、私たちが瞑想でそれを受け取るメカニズムを発達させ、エネルギーがフォースに与える力強さを発見する日を待っている。心の嵐を恐れず、それがどのようなものであれ、ただのフォースにすぎないこと、恐るるに足らぬものであることを知り、光の力で直視してもらいたい。見られたものは、見るもの、唯一なるエネルギーに溶け込むだろう。これが真の意味での平和への道であり、エネルギーとフォースを調和させ、すべての人生に変容をもたらしうる神性の目覚めなのである。

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