魂の夜明けまで

結局、みな、何かを求めている。つまり、空虚さが原因である。そして、空虚が何かを知らないことが原因である。明らかに、外の世界に求める価値のあるものはない。それはいずれも空虚さを膨張させる作用しか持たない。すると、我が内の、その空虚さが何なのか、見るよりほかになくなるだろう。

しかし、誰が見るのか。動機や下心でその自我が見るのか。これは再び何かを求めることに当たる。真我の顕現が起きるならば、そこに、する人はいなくなるため、純粋な視覚だけが残る。あるいは純粋な気づきだけが残る。したがって見るといっても、それは完全に無為である。ただの存在の状態である。

そのとき、何かを求めることがあるだろうか。我即充足である。これほど純粋な、サットヴァ的な、平和、美しさ、素晴らしさ、静けさといったものは外の世界にはない。人間という動物が、知的になり、その知性が神性を邪魔することを後に悟り、知性すら捨て去り、あたかも白痴のように惚けるとき、我そのものが救い主にして神であったこと、ありとある存在を統べる唯一の原因であったことが知られ、すべては我が内に我として包摂される。このとき、すべては私であるという事実が沈黙なる喜びへと導く。この至福だけが、人間の空虚さを埋めうるものである。このことを知らぬことが無知であり、その結果、自分でどうにかしようとすることになる。例えば自分で瞑想しようとするといった無知のあがきと抵抗が始まる。彼らが知らないのは、いや知りたくないのは、何もしなくていいという事実である。

「する人」というものは存在していない。そういう想像だけがある。想念形態に惑わされることがイリュージョンである。何かを求めている以上、何かを欠いていると考えている。ここで間違ったことに早く気づいてほしい。欠いてないし、欠いたこともないし、今後も欠けることはない。しかし、人間はこれを意識で知ることはない。つまり第三様相が、第二様相を通じて第一様相を知ることは稀である。もしくは、個人が、魂を通して、霊つまり真我を知ることは稀である。誰しも、求めることから始まるが、求めることの限界や不可能性を早く知る者が賢き者である。したがって、自我がこの限界を真に知るとき、彼は何事も自身においては諦めることになる。苦しいことも耐えることになる。徹底して抗わないという様態を選択するようになる。この苦痛は嫌われているが、実は理に適った極意なのである。

このことさえ分かれば、あらゆる常識は覆されるだろう。人は、何かをしてこそ何かを獲得できるとまだ信じているが、何もしなくてすべてが手に入るというアイディアを恐れている。それは、何かをしていないと自我が死ぬからである。したがって、探求さえも自我のための自作自演であることが知られるだろう。探求など最初からないのである。外部の影響によるそのような思い込みがあっただけである。聖者や覚者の書物であれ、「外部の影響」であると知り、したがってその段階では害悪であることを認め、想念形態から自身を解放せねばならない。真の自由を知る者は、あらゆる統御されていない思考を完璧に拒む。夢さえも耐えられない。夢は、それを統御する真の自己がいない場合に生じるものである。この世の幻と同じことで、それから切り離されて、孤立して、ゆえに統一していないかぎり、あらゆる夢や幻のようなものが現実性を帯びるようになる。

これらを知的にしか理解できない時期はある。こういうものを読んでいるということは、知的に学ぶ時期ということである。その学んでいる人が、霊的にはうるさいのである。しっかりと、「私は学ぶ者である」とか、「私は導かれている者である」とか、いつも自分を中心として保持する姿勢がある。自我という幻が、どうして本物に対抗しうるだろうか。余計な抵抗だということを、瞑想で理解せねばならない。瞑想が素晴らしいのは、方法がないことである。したがって、誰でもできる。技術の問題ではないし、知識の問題でもない。これを自我の全盛期のような者たちは喜んで間違って解釈し、瞑想の技術や知識や段階を受け入れることで、自身が「到達していない者」という自我の策略を受け入れ、「これから到達する者」というマインドの時間という詐欺に屈することをあえて選択するのである。つまり自我は、こういうことを本当は知りたくないのである。この事実はあなたの話である。

探し求めて与えられないと私は言う。探さないぐらい賢明になり、静かになり、何もかもを受け入れ、自我を真に滅するならば、即ニルヴァーナである。こういった霊的なものを求め、次に求めないほどに成熟したとき、我そのものが、かつて探し求めていたそれ自体であったということに気づく。そのとき、すべての努力がいらなかったことを知る。これを理解するためだけに、努力という自我の抵抗があったことを知る。ゆえに、自我では何もできないことを自我が理解する時期――いわゆる暗夜の時期においては、耐えるしかない。諦めるしかない。まだ自我で何かしようとするだろうが、できないことに徹底して打ちのめされるまで、無駄な努力をすべきである。すると、それが無駄だという事実に気づき、喜べるようになり、何もしないし何もできないし「する人」がいない状態におさまるようになる。そして、三界ではもはや何も学ぶものはない、と言えるようになり、三界は単に奉仕の場でしかなくなる。奉仕しかできなくなる。奉仕でしか喜べなくなる。奉仕以外は苦痛になる。なぜなら、そこには、もはや奉仕する人がいないからである。その者は、ただの通路になった。神の意志の知的な愛ある分配経路になった。そこには個人は共存できないため、かつて誰々であった者も、死んでもはやいないのである。

あらゆる破壊は、より善いものの顕現のための喜びである。古いものの破壊には痛みが伴うが、その意味を知り、次にその意義を知るならば、破壊は喜びになる。人間は自我においてこれを経験する。自我の破壊にあなた達は抵抗している時期であり、この破壊に対して悩み苦しんでいる。なぜなら、自我においては絶望的な時期だからである。その意味を知ってほしい。その意義を理解してほしい。探求者が決して到達しないのは、自我を保持するからである。自我の破壊に抵抗するからである。神性の顕現というアイディアを受け入れ、そのためには、あなたがいてはならぬこと、あなたの主張があってはならぬこと、あなたが存在であってはならぬことを知り、弱い者が強い者に打ち負かされるように、敗北を認め、自我は、本物におのれをいつかは明け渡さねばならぬのである。

これを知り自我が打ちひしがれて静かになるにつれ、やがて魂が訪れるだろう。脳意識で知覚できるようになる。あなた方の幾人かに訪れているその額まで降りてくる波動の出所に辿りつくようになる。これは瞑想を通してアンターカラナの前半が完了したことを意味する。その架け橋というか直接的通路によって、魂の領域へはいつでも出入りが自由になる。それが許されるようになる。人は外部の覚者を求めるが、そのような覚者の一人は次のように言っている。「結局のところ、魂とは覚者である」と。なぜ覚者がそう言ったかをやがて理解するだろう。内なる覚者との親交を深めることで、魂という覚者の愛と慈悲と、そして意志とによって、彼に対する信仰が深まるだろう。それすなわち、自我が魂におのれを自発的に明け渡せるようになるという意味である。その後、「進歩」がなぜ急速化するかも、これまでの文章を理解したならば、分かるはずである。

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