魂の死

例えば、しばらく瞑想すると、純粋な自我意識から退いて、背後の意識に焦点を合わせることができるようになるかもしれない。つまり、個人の苦悩や感覚を知覚することのないひじょうに自由な心地よい意識状態である。私は、いわば苦痛さえなくなればよかったため、そのレベルの意識で満足していた時期がある。しかし、肉体が重傷を負うとき、あるいは大病を患うとき、その意識に入れなくなり、ほとんど自我の意識に戻され、いつもの意識状態であれば治療もしくは超越できる肉体的な痛みや精神的な苦痛でさえ、背後の意識に入れないがゆえに超越できず、分離した一箇の惨めな人間として怪我や病気に苦しむことになった。このとき、自身があらかた超越できたと思っていた意識でさえ、単に肉体に依存したものでしかないことを理解した。

それ以後、どのような意識ですら苦痛であるとみなされるようになった。つまり限定されている。だから苦痛性が存在する。したがって、自我の超越にも段階がある。自我の感覚を無効化しうる内在意識があるが、まだその先、その彼方の、意識ならざるなにかへ到達もしくは貫通する必要があった。しかし、一般的には、人類は個人的な苦悩に縛られており、分離した肉体意識ゆえに世界の中の個人という思い込み、想念と同一化しており、いわゆる魂意識に入ることはできない状態にある。したがって、最初は魂を知ることが先であり、個人的なものからの自由意識の達成が先である。世の中の出来事や自身の感情や想念から大いに自由になり、即幸福な意識へ沈潜できる特権は、人類にとっては夢のような報酬である。私が、日頃から到達可能な意識と呼んでいるのはこのような意識のことである。しかし、それは不完全であり、錯覚意識であり、単なる限定領域であり、したがって個人の魂というものは第四イニシエーションで破壊されねばならないのである。

人間の個別化された魂との同一化、つまり初期の魂意識は、肉体もしくは諸体に依存している。なぜなら、魂は、霊と物質の合一の結果だからである。霊は父、物質は母、魂は子であるとたとえられるが、それは限定を意味している。母なくして子は存在できないのである。ここでは、普遍的な魂、唯一なる魂、オーバーソウルについて話していない。平均的な魂が高位メンタル界、つまりメンタル界の第三亜界に存在しているように、個人と魂が連結されたなら、次はその個別化された魂は限定でしかなくなる。魂はそれまで個人において神であり偉大だったが、魂と融合したならば、次は魂は限定でしかなくなるのである。それまで真我は魂だったが、真我は霊つまり……未知の、決して知られることのない、けっして叙述できない、限定しえないものを指すようになり、魂は超越されなければならなくなる。それは、魂と合一することで理解できるようになる新たな未知への焦点化の始まりであり、このようにして魂は、偉大であったものは踏み台とされ、背後にされ、コーザル体は破壊される宿命にある。この悲劇的認識について、ジュワル・クール覚者は次のように書いている。

……このとき、一つの途方もない経験がイニシエートに与えられる。アンターカラナが首尾よく完成され、霊的トリアッドからアンターカラナを経由して、彼のマインドと脳に、直接的なエネルギーのラインが存在していることを、彼は(見て、知るがゆえに)認識する。これによって、それ自身の界層にあるエゴの体である魂そのものと、幾時代にも渡って、彼の存在の源、、彼の導き手と助言者と考えられてきたものがもはや必要ではないという突然の恐ろしい認識が、彼の意識の前面にやってくる。魂を吹き込まれたパーソナリティーとして彼は、今や直接モナドとつながっている。彼は喪失感を感じ――イエス大師のように――「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイによる福音書・第27章46節)と叫ぶ。しかし、彼は必要な放棄を行い、魂の体であるコーザル体は捨てられ消滅する。これは頂点になる放棄であり、多くの時代にわたる小さな放棄の最高点を示している。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション 」p.342

人間は、最初に自身である魂を知り、魂に導かれ、魂への愛着を育て、魂へと一点集中した生活を送るようになり、その結果、魂と合一する。しかし同時に、魂に死刑宣告が下されねばならないことを理解する。なぜなら、それはより高位の認識を妨げる障害物でしかなくなるからである。魂は、その時点の弟子において、もはや何の役にも立たなくなる。内なる教師は、もはや教師ではなくなる。不眠不休で無知なる個人を導き奉仕してきた働き手にして大恩人は、彼を引き上げたことで死ぬことになる。「死ぬのはキリストでありイエスではない」とはこのことである。意識やアイデンティティーはより高位のものへと受け継がれ移行されるが、役目を果たした内在の教師キリストは十字架にかけられるのである。それは、イエスによって十字架にかけられることを意味している。進化した我々によって、魂は死なねばならないのである。

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