魂の波動と脳の病気の識別

いくつか疑問点がありますので質問させてください。一つ目は、もし頭部の圧が魂の波動であるならば、眉間の疼きはどうなるのでしょうか。つまり前回説明しましたように、眉間の疼きと頭部の圧はその感覚が質的に全く異なるものです。そして両者は同時に存在する場合もあります。頭部の鈍重な圧を感じながら、眉間の疼きを感じることもあるのです。672夜様の説明によれば、私の眉間の疼きも魂の波動であるとのことですので、そうなると全く質の違う感覚ないしエネルギーが2つとも魂の波動ということになりますが、これでいいのでしょうか。もう一つは、魂の波動が生じている場合、同じ脳で同時に病気が発生することはあり得るでしょうか?といいますのが、私の母親は脳の病気で死亡したのですが、その母親の初期症状が今の私の症状に似ているのです。私はここ数年、短期記憶があいまいになったり、言葉が出にくくなったりすることがしばしばあり、これに悩んでおりました。私の母親も同様な症状があり、その数年後脳の重篤な病であると診断され、その後回復することなく死亡しました。私はこの1年くらいで脳の圧がひどくなり、そのようなときは、意識が鈍重となり、思索の継続や文章の読解など脳の知的活動が通常より困難になることがあります。私はてっきり脳の病気だと思っておりましたが、これが魂の波動であり、仮に私の短期記憶の減衰や言葉が出にくくなるという症状が脳の病であれば、これらが同時に両立するということはありうるのでしょうか?高次のエネルギーを知覚する脳が、通常の知的活動が減衰する病気にかかっていることはなんだか奇妙のも思えます。

リズムや動きや圧を特徴とする魂の波動に関する描写ないしは感じ方には、各々において細部では異なる場合は多いが、通常は、「それは何か頭の上に帽子を被せられような感じであり、ちょうど眉の上あたりまで降りてきます。頭の周りに、重い輪がはめられたような感じなのですが、それを頭の内側に感じるのです」というベンジャミン・クレームの描写で即座に納得するものである。それは全体的に「疼き」や「蠢き」であるが、平常時において、特定の眉間のような箇所にのみ集中的にエネルギーが課せられるということはない。ただし、魂もしくはそれ以外の霊的源(それは多数存在する)から眉間のセンターつまりチャクラを通して集中的にエネルギーが送られるということはあり得る。

今までのあなたの描写であれば、今回ほど眉間の疼きが強調され、はっきり質の異なるものであるという表明はなかったと思う。その場合、普通に読めば魂の波動である。しかし、魂の波動と別に脳の病気が併存することはもちろんあり得る。脳専門ではない普通の外科医の友人に聞いてみたが、それだけでは分からないと言っていた。それは当たり前だろうが、教えてくれた内容を簡潔にまとめると、

「脳の疾患であれば、症状は時間とともに悪化する進行性が顕著な特徴あり、認知機能や人格の変化、運動や視覚機能など多くの変化を伴うものである。数日単位で波があったり、つまり休息で軽減したり、長期的に連続性の見られる悪化傾向がない場合、典型的な脳疾患とは一致しにくい。ただし、心配があるなら医学的評価を受けるべきある」

というレベルのものであったが、いずれにせよ私もその医者も、この文章だけでは脳の病気である可能性は低いという見解で一致している。だからといって全否定はできないため、同じような回答に辿り着くだけかもしれないが、不安であれば医学に頼らねばならないだろう。読者の方にも医者の方は何人かいたでしょう。何かしら分かる方はメールで教えてください。

意識が鈍重となり、思索の継続や文章の読解など脳の知的活動が通常より困難になることがあります。これが魂の波動であり、仮に私の短期記憶の減衰や言葉が出にくくなるという症状が脳の病であれば、これらが同時に両立するということはありうるのでしょうか? 高次のエネルギーを知覚する脳が、通常の知的活動が減衰する病気にかかっていることはなんだか奇妙のも思えます。

再び部分的に引用すると、霊的な波動とそのような症状が「同時に両立」することは当たり前にあり得る。あなたは「意識が鈍重となる」と言う。その意識とは自我意識であり、この世に焦点を合わせた物質意識である。その反対の、霊的意識に戻す作用を持つ魂の波動の場合、当然ながら、睡眠のときのように、この世の「思索の継続や文章の読解」といったことは困難になる。このようにして書物などがサマーディーと呼んでいる意識に入るのである。私もまた、途中で書けなくなって公開しなかった記事は確実に千以上ある。記憶に関しても霊的に「減衰」は起こり得るが、それはより高位の段階で起こる場合が多い。つまり、時間に生きなくなり、過去や未来といった話と関係がなくなり、記憶に頼った生き方をしなくなることでそれは起こるのかもしれない。肉体を保っている何人かのイニシエートで記憶が失われていく話は聞いたことがあるが、それは彼らにとって記憶というものが関係のない話になったためであろうし、逆に人間意識で生きる場合はそれが問題や障害になるだろうが、彼らにはならない。

ちなみに、私にとっては多くのことが無関心の対象であるため、ほとんど記憶に残らず、したがって様々な思い出話に対して何も覚えていない私に妻が落胆したり、多くの友達にとって重要な話を覚えていないから嫌われたり、もう十年以上は前の話だが、ある飲食店の主からは私の記憶力の障害は異常だとして人伝に永久出禁を言い渡されたこともある。実際の出禁の理由は違うところにあり、私がその者の性的な盗撮や嫌がらせからある女性を守ったことが原因であったが、私を追い出すための理由として記憶の話が使われたのは事実である。

引用に話を戻すと、「通常の知的活動」から自由になるのが霊的進化である。あなたの「知的活動」が意味するのは低位マインドつまり具体化するマインドのことである。魂の波動は、その低位具体マインドから高位抽象マインドに到達させる働きを持つ。最終的にはメンタル界を超えて、直観つまりブッディの界層にまで到達させる。つまり低位具体マインドという「通常の知的活動」は乗り越えさせられるし、それは知性とはみなされなくなる。だからといって、「通常の知的活動」ができなくなるわけではない。霊的に安定したならば、その後、かつての道具は霊的な意識を保ったまま使用することが可能になる。たとえば、私はかつてならば瞑想の最高レベルのときしか到達できなかった意識がいまや平常の意識であり、そのような意識に入ったまま書いたり話したりすることができるゆえ、必ずしも魂レベルの意識に入っているからといって日常の活動が阻害されるわけではないし、結局はいつかそうならねばならないのである。

これはあなたが私の文章を知る何年も前から書いていることではあるが、私もまた長い年月に渡り脳の病気だと勘違いしてきたのである。だからといって医者に診てもらったことはないが、悩み方は深刻なものであった。なぜならひどく苦痛だからである。したがって、物心ついたときにはすでに苦痛だった。私は魂の波動は比較的楽なものだったが、別の源から来る波動の方が強力であり、この波動が来るともう助けてくれという感じだった。これにより、様々なこの世の異常現象をもたらしもした。たとえば、子供の解釈であるにせよ、あらゆる音にもまた人格が宿っていると考えていた。それを自分の意識の中でいわば自分として感じるのである。これは怒っている音、これは喜んでいる音、などである。聴覚だけでなく触覚からもこれは起きたし、さらには視覚にも異常をもたらし、人が見えないものを見たり、物質の背後のものまで見えたり、周囲の誰もが理解しない話であるため、親などは呆れて聞いてくれなかったし、話すと苛つかれるから三歳か四歳で我孤独なりの境地を学ばねばならなかった。たしか十九歳だったと思うが、ベイリーの本を読んだり、最初に挙げたクレームの説明を読んだりするまでは、魂の波動については理解することはなかった。その後はいくらか試行錯誤したが、融合すればいいこと、つまり明け渡し、それまでのパーソナリティーのフォースではなく、魂のエネルギーに己を一致させればそれは苦痛ではなく心地よいものになることを理解したゆえ、それ以後は楽になったどころか、人生が一変した。なぜなら私が実体ではなかったからである。本質的実体が真我であり、それ以外は空想めいた非実在であることが明らかとなり、この本質的根源において我々のような自我の支流は一なる大海に溶け込むことを理解し、それによってこの世の話は無関係なものとして超越されたのである。そしてそれは言葉にできない素晴らしいものである。

本物と偽物を識別した後は、この世は奉仕するための領域でしかなくなり、それ以外に用はなくなる。私にはこの世で欲しいものもなければ、したいこともない。媒体は霊的生命エネルギーによって生かされており、それはそのエネルギーが意図するものを表現することを喜ぶだけである。個人の欲求も意志もなくなり、神の意志を滞りも歪曲もなく流すこと、つまり邪魔する要素を統御し無力化することで、同じように惑星を媒体としている神の計画に奉仕することができる。したがって、神と呼ばれる我々の本質の意志を理解し、道そのものになり、過去も未来も私に包含され、その永遠性に自己が統御されるとき、この世の肉体の死は決して恐ろしいものではない。誰も死なないことを知るとき、我々は喜びに満たされるだろう。日頃から何に生きているか次第である。本質つまり生命自体に生きているとき、何が死ぬというのだろうか。この世の形あるものは絶えず変化するのであるから、死を受け入れられない精神というものは、その精神の学習怠慢か、切実度の低さを意味している。私は物心ついて死があることを知った瞬間から死が恐ろしくて仕方がなく、植物人間なども想像しただけで気が狂いそうになるほどであったため、なぜ死ぬのに生きるのか、死とは何か、生とは何かを知らないでは怖くてたまらなかった。答えを知るまでは常に死に怯えねばならず、死ねば無になるとか何とか言われれば言われるほど恐ろしさは増すばかりであったが、やがて数々の困難を通しついに瞑想に導かれ、つまり魂自体に導かれ融合したとき、死が存在せぬことを完璧に理解した。と同時に、この世の肉体の死には完全に無関心になった。むしろ肉体の死には、喜ばしい祝福的な要素が多分に含まれていることを理解した。将来、死への応対は涙や陰鬱な葬式ではなくなり、微笑みに満ちた、ある種の祝いの行事に変わるだろう。それは良いことである。そして、すべては良いことである。このようにして、すべてに神の完璧さ、完全性を見るようになるだろう。こうして我々は、明日か数年後か、誰もが病気になったり何らかの要因で肉体の死を迎える定めだが、それはひとかけらも恐ろしいものではなく、ただただ美しく喜ばしいものになるであろう。なぜなら、我々自体すなわち真我は永遠に真善美であり続けるからである。何に生きるか次第である。だから、真の本質を見出すために、誰もが可能なものとして、瞑想はすでに与えられているのである。

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