- 世間には禅寺で1日8時間瞑想をする修行者も珍しくありませんし、ミャンマーやタイの仏教の修行場では1日12時間の瞑想を毎日繰り返しているそうです。
瞑想は修行ではなく、長時間する必要もありません。自我にはそういうスタイルは人気が出るでしょう。修行した気分にはなれますから。
- 彼・彼女たち全員が魂の波動を感じているかといえば、違うのではないかと思われます。
魂と接触しているならば、なぜ他人の教えや規定に従う必要があるでしょうか。何も分からないから権威のある人に依存するのです。瞑想は万人のものであり、教えは内から得られます。
- 魂のエネルギーを感じる者は、人として有能であり、進化した存在であると聞いております。翻って私を客観的に見るに、人格は未熟であり、社会的には無能の部類に入ります。品性もどちらかといえば下劣な部類ではないかと思います。この人生で何かを成し遂げたこともなく、結果を出したこともほとんどありません。
魂の見地からすれば、個人の背景はどうでもいいのです。瞑想することで、魂に好かれるようになり、品性の下劣さが取り除かれるのです。重要なのは、正しく生き、正しく瞑想しようと思い、それをするエネルギーがあったかどうかです。その力の源は彼です。準備のできていない人にその力は訪れません。
- 瞑想を試みている動機も、死の恐怖や無能によるコンプレックスからの逃避が大きいように感じております。
だから限界を知り、瞑想し、真我を知るのです。偽りの自分に満足しているならば、そのまま遊び続けて問題がないのです。しかし、いつか自我の無能に気づき、より偉大なるものに熱誠を抱くようにならねばなりません。事実は、無能やコンプレックスが瞑想に導いたということです。
- 眉間の疼きは幼少のころからありましたが、魂によるものとは考えられません。眉間の疼きはおそらくは何らかの体質によるものかと思われます。私のような人間が魂の波動を感じるなど俄かに信じがたいです。
多くの人が、最初はそう言います。その後、認めるようになりますが、大半は、その状態が当たり前になり、自我には何ももたらさないため、飽き飽きして、また欲望の世界に戻ります。このような揺れ動きの生涯がしばらく続き、やがて完全に魂に没頭するようになります。瞑想が一時的かつ発作的な熱狂ではなく、生を通して当たり前になることが可能であれば、過去の生涯で幾度となく瞑想に取り組んできたのかもしれません。そういう人はなおさら、幼少時から波動を感じるでしょう。
- 疼きの場所は、脳内というよりもっと表面の浅いところで感じます。リズム的にはジンジンというほどの強弱はなく、幽かな波動というか疼きの広がりを感じます。今日の瞑想では、眉間から疼きが生じ、鼻の上部の付け根あたりに強い感覚を感じました。何かが当たった時にエネルギー感覚が中断するとのことなので、わざと指をあててみたところ、一瞬だけ鎮静化したような感じがしましたが、またすぐに疼きが生じました。このような状況でも魂の波動といえるのでしょうか?
流入が弱いときは、そういう描写もありうるかもしれません。歩いていても話していても感じ続けますが、眉間を押したまま、押した箇所に波動を感じることはできません。指を離せばすぐ波動は戻ります。
- もし何かしっかりとした判断基準がございましたら教えていただければと思います。
自分で確認する以外に方法はありません。私は何年も確認と疑念、そして苦悩に費やしました。最初からそれが重要であると知っていたならば、無駄な抵抗もなく、早い段階で今のような状態に至っていたことでしょう。
- あとこれが魂の波動で間違いないとすれば、今後の瞑想を続けるにおいて、何かアドバイスや参考にすべきことがございましたらご教授願えますでしょうか。瞑想は瞑想が教えるとのことでしたので、このまま流れに任せるべきでしょうか。
瞑想は瞑想が教えるとは、瞑想で魂から直接教わることが可能になるという意味です。彼に従ってください。彼の波動に習ってください。その波長にご自身を合わせてください。そして彼から教わってください。やがて、魂の話が事実だったと知るでしょう。本当に内側に聖なる存在がおられ、それが真の自分であり、今私は魂として問題がなく、恐れていたものは去り、幸せであると言えるようになるでしょう。そのときは、つまづいている兄弟姉妹に魂を教えてあげてください。
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