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前の記事を読んだ人が、なぜ十が完成を意味するのかと言った。説明もなく十が完成と言われても困ると。だから逆に、あなたの完成度はいま何割くらいかと聞いたら、よくても一割か二割かもしれないと答えた。このように、無意識に十を普通の人たちもまた完成の象徴として捉え、多くの場面で十割や十点満点という考え方が採用されている。この世の測り方は一から十までしかない。十一から二十もまた、新たな周期の一から十でしかない。このような一から十を十回くりかえすと百だが、それは依然として十である。このように、十は常に完成を指し示すものとして使われている。

ならばゼロ(0)は何か。一から十は顕現の世界の話である。厳密に言えば、1から9(実際は9.9999……)がその周期の学びであり、10は1と0の融合でもあり、10は1~9という顕現からすれば、一種の非顕現である。その周期の完成である。だから、イニシエーションも九までしかないだろう。0は、顕現とは無関係な永遠性を意味している。この世でたとえると、ニサルガダッタ・マハラジのような第3段階のイニシエートとか、キリストのような第7段階のイニシエートとか、顕現においては段階があるだろう。しかし、1~9と0は関係がないのである。0は永遠に非顕現であり、10になったときだけ完全に顕現と非顕現が融合し、一つの周期が完成させられる。そして、この完成をさらに高位の見地から見た時は1と呼ぶのである。つまりより高い螺旋状にて新たな1から9への道が知られるのである。

さらに最近の記事で採用した「太陽信仰」の概念から説明するなら、太陽は0の象徴である。1億年前の地球に行ったとして、そこから見える太陽と今我々が見ている太陽は同じである。ひどく発達した1億年後の地球に行ったとしても、そこを照らしているのは相変わらず同じ太陽である。地球が1~9という顕現の段階を進むあいだ、常に地球と地球の全生命を生かすのは太陽である。

これを人間に置き換えて考えねばならない。人間には様々な発達段階つまり意識段階がある。人間の場合は5までの段階で終わりである。5に達したとき、つまり第五イニシエーションにおいて、①鉱物②植物③動物④人間⑤霊的という顕現の段階における五番目の、言葉にするには不十分である霊的王国が開かれ、人間の意識が動物や植物に戻ることが無意味であるように、第五王国の意識存在が人間に戻る必要や価値はなくなり、これを宗教では解脱などの概念で説明してある。5は半分を意味するが、1234と6789の中間であり、我々がしばしば五段階評価をするように、5は濃縮した10の象徴でありながら、同時に不完全な10の象徴である。言い換えると、5は、6789の始まりでしかない。1234という相対的にレベルの低い世界の完成は5だが、6789からすれば未完成である。

しかし、0だけは10以外のどの数字とも無関係である。無関係でありながら、0はどの数字にも浸透しており、たとえば1ですら1.0であり、1.5ですら1.50であり、0はどこにでもつきまとう。つまり顕現体の意識がどの段階であろうとも、0を離れて存在することはできない。0は全顕現の原因でもあるし、全顕現に浸透するものでもあるし、全顕現とは全く無関係でもある。1~9は神(0)の呼気であり、一つの周期が終わるとき、10という完成において、神の吸気が始まり、1~10未満のすべてが10という0に吸収される。このときは、我々の世界で言えば、太陽すら破壊される。全宇宙が神の吸気によって破壊され、そのような形態を通して得られた果実つまりエッセンスだけが吸収され、再び0だけになる。現段階でいえば、我々の太陽系は二番目のものであると教えられている。したがってその根本にあるのは第二様相であり、現在の太陽系を支配する原理つまりエネルギーもしくは神は愛なのである。

瞑想は、0を知るために存在している。どの数字にも0はくっついているように、どの意識段階でも0が象徴するものを知ることができる。知ったとき、I AM THATの意識が達成される。しかしながら、0への旅も無限であり、第二段階の意識が知る0と、第三段階が知る0は、その段階もしくは媒体の制限によって理解度も融合度も異なる。我々がその一部でしかないお方つまり神ですら、神がその一部でしかないお方つまり神の神という0について学んでいる最中である。この意味で、0もしくは真我は無限の神秘である。

しかしどのような0であれ、つまり0の認識であれ、それが意味するのは0という輪と和であり、0は1を意味している。実際には、1とは、1~9の世界で使われる0の象徴であり、0においてはいかなる数字もない。言い換えると、1は「I AM THAT」であるが、0は「I AM THAT I AM」と関係している。顕現の背後の非顕現と関係している。イニシエートがこの世のものに影響を受けず、金剛不壊であるのは、自身を顕現ではなく非顕現と同一化しているからである。言い換えると、魂は肉体や精神ではなく、霊と同一化しており、霊それ自体だからである。

そして、以上のような文章には本質的な意味はない。人間内の1~9のすべてを経験し、それらから学び、その学んだものが真の徳であることを知り、それだけが人間を神聖にする10という神の吸気(九期)において吸い上げが開始され始めるエッセンスである。よく「徳を施す」と言うが、それはきわめて利己的な考え方である。我と徳は同じものであり、徳を施す者も、施される者も存在していない。だから、何かを与えられることを期待した物乞いに対して、ペトロは、「わたしには金や銀はない」と言って断っている。その代わり、その「美しい門」と呼ばれた場所で、物乞いにすでに内在しているキリストを教え、乞食のその不自由な足を癒した。

徳とは、人間という周期における1~9(あるいは3×3)の経験において得られた霊的結論である。それは経験によって活性化された霊というエッセンスである。それ自体は純粋だが、顕現の世界に姿を現すときの表現は愛であり、また慈悲であるゆえ、一般的に「徳を施す」と呼ばれる行為は、ただの自然現象である。徳は特別な行為ではなく、喜びに満ちた自然の発露である。徳が勝手に徳を生み、それが循環している。人間の場合、0を知らず分離しているため、徳は常に自分が与えるものか、自分が受け取るものであり、得自体を知らぬゆえ、損得に生き、対価に生き、ギブ・アンド・テイクに生きている。ゆえに、得たり失ったりがあり、常に愛ではなく恐怖に支配されている。自己を放棄し、愛を妨げる「I」がなくなったとき、神のエネルギーは円滑に循環するだろう。これが0の生き方である。0は、神以外に何も所有せず、つまり執着せず、求めず、その文字が表しているように途切れることのない循環であり、調和である。そして、顕現の背後の0を知ったとき、つまり0で在るとき、1~9の間のすべてに0は内在し、森羅万象の形態の背後の0を知り、それが我自体であると同時に、我ゆえであり、また我が子であり、深い瞑想つまり人間内の神の吸気の幕間において、すべてが破壊され、飲まれ、永遠に溶け去るであろう。是の路はゼロである。

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