何がわれわれの進歩なのだろうか。間違った自分で何万回生きても、ゼロにいくつ掛けてもゼロのようなものである。ゼロに関与することは錯覚である。ところが、ゼロに一を足す努力をしたり、二や三になるような生き方を小さい頃からわれわれは世の中で強いられている。真実の世界では、一に何を足しても一である。足すことのできる我で生きても、それが死ねばすべて足したものは失われる。足し算で生きた生涯をいくつ数えても、毎回、現象世界で足したものは失われているのだから、ゼロのままである。これに気づくとき、ゼロに何か足すという錯覚は消える。偽のおのれで獲得される何かという錯覚は否定される。彼は、偽とは一切関わらないようになるだろう。これによって真実を知覚する能力に目覚めるのである。光が闇を飲み込むのであって、闇が光に近づくのではないことを知るのである。
内在の光、内なる太陽、輝きを放つ魂を通し、真我がわれわれに影響を与え、われわれを洗い流し、浄め、破壊し、われわれを変容させる作用が進歩である。自我で抗うことではなく、この内在に生きることが進歩を生み出すのである。はじめて、ゼロから飛躍するのである。自我から、真我へ生きはじめること。あらゆる生涯は、経験を積み、真我に気づくためのものであった。真我に生きなければゼロであることに気づくためのものであった。はじめて、失われることのない、真の価値を我が内に見い出すのである。
これまでの努力は足し算だった。努力する人が何かを獲得しようとしていた。これが無駄だと気づくために努力はあるが、普通の自我には努力を教えなければならない時期がある。その段階の人はこのような文章を読まないだろう。もう努力をたくさんしてきた人だと思うのである。どうもそれではうまくいかなかった。どうしても私は自我なのだからと、自身の自我ゆえの霊的無能性に気づいている人だと思うのである。まだ自我に生きたい人ならば、自我で何か求める修行に対して元気ではりきっているはずである。われわれに、もうこの元気はない。知りうるものは全部試した。そして無駄だった。努力や真剣さが足りないと解釈した時期もあった。そうではなかったのである。ゼロに生きてもゼロだという学びのためだったのである。ああ、これに生きても無駄なのかとわれわれは気づく。何が間違った自分なのかに気づく。こうして、あの偉大なる太陽が徐々に姿を現すのである。偽我で経験を積み、偽我を知り、なぜ偽かを理解し、その知恵が偽我に関心を示さなくさせることで、永遠の至福が暗黒を飲み込みはじめるのである。
この人生、われわれは再びゼロに生きるだろうか。娯楽に溺れたり、自分の(霊的)利益のために生きたり、真理を求める者だと錯覚したり、偽の自分を担ぎつづけるだろうか。自分とは誘惑である。その引力に騙されるだろうか。世の中は、自分が好きな人だらけである。自分が中心で、その自分の脅威は敵で、自分に都合のいい者は仲間である。この保育的な悲しみはよく知っている。そこからの抜け出し方も知っている。こうして自分が個人でなくなるならば、個人の悟りとか、個人の完成とかはない。それは、すべての兄弟たちが錯覚から抜け出し、すべての姉妹たちが完成してはじめてひとつの完成であることへの畏敬のはじまりである。それは途方もない愛である。全我は愛だが、自我は愛を否定する。愛に全く参加できない。愛に気づきもしない。ゼロ、つまり無価値は愛からの追放であり、ただ惨めで虚しい。ゼロから出発しないこと。「私」から生きるのではなく、内なる私を知り、この一にすべてを預けることである。これが無抵抗である。これが生きながらの天国である。この地上に降臨する喜びは、その者がどれだけ世の中で無価値でも、悪人でも、善人でも、進化してないと自覚する者でも、ひとしく照らすものであることに違いはない。これに気づけるほどの純粋な諸体に精製することである。それを人は自分の努力として開始するが、後に魂との共同作業になり、やがて偽我は消えゆき、唯一なる者のみが為したのだと知るのである。