瞑想の落とし穴

瞑想するためには、瞑想が何かを知らねばならない。また、何が瞑想ではないかを知らねばならない。書くからには専門用語を使う。まずメンタル体と言うからには、それは体つまり”質料たち”であるに違いない。言い換えれば、それは質料経由のフォース、質料に条件づけられたフォースの集合体であり、よってマインドはその性質として、思考という形態を作り出し、思考というフォース活動を媒介する役割を担っている。したがって、思考とはただのメンタル・フォースであり、ならば思考を静かにさせるのは、低位メンタル界より高位の力でなければならない。だが、初心者が以上を理解するのは容易ではない。その理由について以下で論じていく。

目次

1. マインドの自己欺瞞と対象化の罠

初心者がまず直面するのは、マインドがそれ自体を超越しようとする過程で作り出す自己欺瞞の罠である。低位マインドは本質的に分析的であり、対象を認識し、それを操作しようとする。この性質そのものが、霊的探求における大きな障害となる。例えば、「今この瞬間」に意識を向けようとするありがちな行為は、一見して霊的な実践のように見えるが、実際にはマインドが新たな対象を見つけ、それに同一化するプロセスに過ぎない。この同一化は、我々が高位のエネルギーとメンタルフォースの違いを理解できないために生じている。

思考を観察する過程において、我々はしばしば「何かを得る」または「何かを達成する」という潜在的な欲望に駆られる。この欲望自体がアストラル・フォースの活動を始動させるメンタル・フォースの一形態(つまりカーマ・マナス)であり、それは霊的な活動つまり唯一なるエネルギーとの融合に寄与するどころか、逆に妨げ続けるばかりとなる。この罠を見抜かない限り、我々の瞑想は非本質的なものに留まる。以下にありがちな例を挙げる。

  • 雑念を消そうとして失敗する体験
    初心者は、瞑想中に次々と湧きあがる思考に対して、『思考を止めなければならない』と考える。例えば、その日の仕事での失敗や対人関係における忌々しい記憶が頭をよぎると、『雑念が多すぎる』と思い、その無力感から逆に苛立ちに屈し、『私は瞑想に向いていない』という結論や自己劇化に逃れようとし、瞑想が嫌になるというパターンである。しかし、思考を抑え込もうとする試み自体が、メンタル・フォースに条件づけられた活動、自身による自身に対する活動でしかないのである。彼には高位の力の概念が欠けている。
  • 体験を得たいという欲望と焦燥
    初心者は、瞑想をすることで『悟り』や『サマーディー』のような体験を得ようと期待する。よって、瞑想中に意識の感覚や呼吸などに集中しているとき、『これで正しいのか』『これで到れるのか』などという不安に急かされ、結果的に瞑想が妨げられる。このような期待は、霊的な結果が生じるには時間がかかるということを受け入れられない激しいアストラル活動に起因する。悟りなどの体験を求める気持ちは個人の性質として自然なものだが、個人に執着することでかえって霊的本質から遠ざかることを知り、メンタル界より前に、アストラル界について精通することで、まずは己を知ることが肝要である。
  • 自己改善という罠
    初心者は、瞑想を『自己改善のツール』として捉えがちである。例えば、『瞑想で能力を開発したい』『瞑想で自分の欠点を克服したい』『自分を浄化したい』などといった個人的なものである。彼は社会的に弱者であると思い込んでいるか、個人的に自信がないか、物質界でより力を得ることに興味を持っており、霊性と逆の道を歩んでいることに気づく勇気が必要である。

2. 経験と洞察の不足

頭部のチャクラから流入する高位のエネルギーを知覚し、それをマインドのフォースと融合させるには、長年の瞑想とそれによる洞察が必要である。初心者に対し、この洞察を得るプロセスは時間がかかるものであることを理解してもらうのはしばしば困難である。なぜなら、彼らは往々にして即効的な結果を求めるからである。この霊的な焦燥感が、瞑想を表面的なものに留め、霊性に対する独自の理解を妨げ続けている。

初心者はしばしば思考を払いのけようとする。集中することでマインドを超越できると教えられている。しかし、マインドを超越するためには、思考自体をメンタル質料経由のフォース活動として触知的に見抜き、その活動をより高位のエネルギー活動に置き換える、というプロセスが必要なのである。このプロセスを理解するには、単なる知的理解を超えた霊的直覚が必要である。この洞察に欠ける場合、我々のいかなる試みも表層的な、マインドの枠組みの中の単なるメンタル活動の延長に留まる。

3. 教えや概念への過度な依存

教えや概念に過度に依存する過程は、霊的実践の初期段階において避けられない模索の一つだが、それが逆にマインドの活動を助長する結果を招くことを、いずれは理解しなければならない。教えそのものがメンタル・フォースの形態である以上、それを基軸とした実践は、いわばメンタル・フォースから別のメンタル・フォースへの移行に過ぎない。この非知性的な試みから脱却するには、初心者が教えを超えて、自らの内的洞察に基づいて瞑想を深化させる必要がある。そのためには、何も信じてはならない。すべての思考は真我を覆い隠す詐欺である。

4. 高位のエネルギーへのアクセスの難しさ

マインドよりも高位のエネルギーは、努力や意図的な操作によって得られるものではない。それは、長年の瞑想、長年の諸体の精製、つまり肉体、アストラル体、メンタル体、各々を構成する質料の等級を高めた結果の流入である。波長の一致がそのような流入を可能にするのである。よって初心者は、漠然と「波動を高める」とか「振動率を高める」などの表現をするかもしれないが、具体的かつ知的にそれを理解しているわけではない。ということは、理解しなければならないのである。

我々が肉体に宿っているのは――そのような肉体意識で活動しているのは、諸体の質料へ霊的な働きかけを行うためである。それは偽我である我々の活動ではなく、それらが間違ったフォース活動として洞察された結果である明け渡し、高位のエネルギーに対する諸体のフォースの自然で自発的な服従の活動であり、これは実際には、魂が諸体の征服を強引に開始しはじめ、それに対し肉体人間が反応を示すことができるくらい諸体が精製された、ということを意味している。「彼」が到来したならば、あとは「彼」がすべての面倒を見る。多くの信教者はキリストに代表される教師の再臨を待ちわびているが、「彼」が真のキリストであることを知らねばならない。その外的な顕現がそのような教師である。本質は我々の内のキリストである。多くの初心者はこれをまだ認めておらず、外に教師を求めている。しかし、外の教師あるいはイニシエートは支援はしても、全てを代わりに行うわけではない。また、そのような教師とは、瞑想で内的につながることが可能であり、(このような言い方をしてもよければ)彼らは常に支援をしようとしている。あとは、波長の合わせ方に精通するまで、しばらく辛抱する必要がある。啓示はとつぜん訪れるだろう。

結論

我々が「マインドの枠組みを超える」ことの本質を理解できない理由は、自身であるマインドの自己欺瞞、瞑想経験と洞察の不足、教えや概念への依存、そして高位のエネルギーへのアクセスの難しさに起因している。これらの要因を克服するには、結局のところ、長期間にわたる、依存を廃した瞑想の実践、そして日常を通した正しい生き方を通して、諸体の質料の等級を徐々に高めていくことが不可欠である。最終的には、思考すなわちメンタル・フォースの限界を見抜き、エネルギーとフォースの性質の違いを理解して、明け渡すこと、すなわち高位にして唯一なるエネルギーとの統合に至る道を歩むことが求められる。この道は、決して教えや概念や観念を扱う道ではなく、そのようなフォースを即座に高位のエネルギー活動に置き換えるという、いわば無への道を教えるものである。無とは、我々の信じるいかなるものも存在しないということの認識であり、この真の放棄、信じてきたもの、愛し執着してきたいかなるものとも霊的に離別するという大いなる放棄のことであり、この無が、あるいは無我が、真我を顕現させるのである。

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