タイトルを拒む

自分が何物でもないことを知ることが解放であり自由であり至福である。名のつくもの、名をつけられるもの、概念化できるもの、想像しうるもの、自分がこれらのいずれでもありえないことを知ることが喜びであり平和である。人々の「知る」は知識であり想像である。だから真に知ることはない。一切の知識や概念や名づけうるものから自由になるべきであり、そのために放棄すべきである。知識を所有する者はその知識によって縛られるだろう。これが霊的自殺行為である。「私は何も知らない」が事実である。我々は朝起きて自分が何者であったかを思い出し、その者としての活動が始まる。朝起きてすぐに瞑想しない者、つまり自分が自我ではないことを思い出さない者の一日は霊的地獄である。その者は、特定の男か女か、名づけられた誰かとして行為を開始し、自分感覚でその日の欲望や責任に生き、一日を台無しにするだろう。彼はその日、ベッドから出た後、リビングに行こうが、あるいは会社に行こうが、ゴルフに行こうが、霊的にはすべて地獄行きである。特定の個人で天国に行くことは不可能である。特定の誰かでありながらニルヴァーナ意識を知ることは不可能である。すべてが美しき天国であることを知らぬ者は、地獄にいる。地獄とは無知のことである。無知とは本物を知らないことである。本物が訪れるほど成熟していないためである。成熟とは、結局のところ、人間を構成する三重の諸体が精製されているか、どのくらい浄化されているかという度合い、進化段階のことである。それは寿命のようなものであり、7歳が70歳よりも劣っているわけではないように、転生周期という魂の寿命の過程にあって、魂的に何歳であるかといったレベルの話である。進化段階が誰かと比べて低いこと、誰かと比べて魂的に若いことは、誰の責任でもなければ、善悪の問題でもない。我々が魂的に幼稚園生だろうが中学生だろうが、それが何も意味しないことを理解するならば、つまり進化段階が自分の責任ではないことを知るならば、我々は進化を阻んでいるもの――人間であれば自分である諸体に対して、ただ気づいているということがあるだけである。同一化せずに、進化を阻む退化的なものを見ること、上昇的なものを下降させようとする力を見ること、そのような離れた目によって錯覚や非実在は服従させられるという事実をただ知るだけである。このとき、我々の知は知識ではなく知恵である。

「責任から解放されました」と言って人は喜ぶ。したくないことをしなくてよくなったことを喜ぶ。世話すべきものが、別の者によって引き継がれたとき、その責務から解放されたと人は言う。自分に対しても同じことである。このような文章を読んでいるほとんどの人が、自分を世話すべきものと考え、その自分に対して責任を持つ者が自分であるという奇妙な二元性に生きている。だから葛藤があるのである。恐れがあり苦痛があるのである。私はあなた方のように責任感が強くなかったため、無責任にも自己を放棄する喜びを見出してしまった。なんというアウトサイダーだろうか。人の道から外れることを良しとしてしまったがゆえに、神を見出したのである。人の世界の常識は、人々に任せておこうという精神である。私には何もかもが無関係であるという魂である。既知のいかなるものとも一切交わらないという際限のない孤立である。これが有限意識から無限意識へと導いたのである。なんと楽なことだろうか。人々は霊的な目標を定め、そこへの道を自分で歩もうとするか、そうであるべきだと思い込んでいる。私は逆に、その歩もうとしている者を放棄したのである。すると私が道そのものであった。したがって後は自動的なものになったのである。

この話の意味は分かるだろうか。私が個人でないことを知るならば、その個人が負っていた責任はすべて無くなるのである。自分を誰かだとみなすならば、その誰かに付着しているものの責任はそのときあなたのものになる。我々は肉体を動かしていると考えており、肉体として世の中で何らかの責任に生きている。その責任を自我で捨てよと言っているわけではない。自我が瞑想して真我を知るならば、自我の責任とは関係ないことを真我として知るだろう。目標があると思っていた者は、すでに目標が達成済みであることを知るだろう。どう伝えたらいいものか。新しい表現はないものか。言葉や文章を考えようとすればするほど、いかにそれが無意味であるかを痛感する。そして、直接体験へと導くしか方法がないことを理解する。私はせいぜいモチベーターである。瞑想させるための。瞑想に熟練したならば672夜は読む必要がなくなる。瞑想という手段によって知ることのできる「名づけえぬ何か」が自分になるからである。この……は全部兼ね備えていると思えばいい。不幸な人は……によって即幸福になる。病んでいる人は……によって即癒やされ病いの非実在を知る。苦しい人は……によって即喜びに満ち溢れ、すべてが美しいのだということを理解し涙を流す。足りていないと思われたいたものは、すべて……によって満たされるようになる。しかも永遠に。この……に到達させるために瞑想は存在し、世の中の瞑想はどれも真実ではなく、おのれのみで見出されるオリジナルの瞑想のみが……への道である。誰の方法も偽物である。概念だから。本物がやがて訪れるだろう。徐々にである。いきなりではない。突然悟りました、という人ほど進歩して我々は生まれてきていない。それは魂的に99歳で生まれてきたような連中の話であり、我々の話ではない。我々にあっては、本物は徐々に浸透していくものである。ごくごく、ゆっくりである。そしてこれが安全な道であり賢き道である。

名づけえぬ……に対し、人類は神とか真我とかTHATとか様々な概念で一時的に教えようと試みてきたが、もはや私は概念化したくもないし名前で呼びたくもないし文字にしたくもない。「……」にすら我慢がならない。すると書けないということになるため、文字か記号を使わねばならないのだが、それらが示す概念に惑わされないでもらいたい。問題なのはマインドだけである。これが原因であらゆるイリュージョンが現実のように見えている。その背後の実在が分からなくなっている。実在を分からせる実在そのものが意識に啓示される可能性がゼロになっている。何もかもにもはや目をつむり瞑想するより他にない。それまでのすべての知識は呪いのようなものである。捨て去らないと真実はそれらによって見えないし感じられることもない。他に何を言えようか。

毎回のことだが、文章が書かれたあと、タイトルをつけないといけない。私の記事はなぐり書きに近く、ただ翻訳したり、表現しようと試みられたものであり、いざタイトルをつける段にさしかかるとき、それまで何を書いたかすら覚えていないため、非常に面倒なことに、多少読み返す必要がある。このタイトル化すら苦痛なのである。かといって、読者が読み返したい記事がある場合の目印にならぬゆえ、適当なタイトルをつけることになる。しかし、ほとんどの記事において、適切だと思えるタイトルがない。今回もない。それは、私が具体的な概念の世界に生きていないため、概念の檻を拒むからである。これを自身にも当てはめてもらいたい。自身にタイトルをつけないでもらいたい。タイトルに限定されないでもらいたい。名前など、概括するようなタイトルを自身につける者は、獄舎に繋がれたままだろう。輪廻の鎖に繋がれたままだろう。我々はタイトルではない。タイトルの中身でも、タイトルが指し示すものでもない。したがって、我々は永遠なるもの、真なるものに対して、結局は何も言えず、沈黙するより他にないのである。この途方もないものへの緘黙が瞑想である。したがってそれは、未知なるなにものかによって押しつけられた、ただの存在の状態である。

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