現在の世界の困窮に対して行うべき努力のために、あなたは実際的な性質のことで何をしていますか。あなたの創造的な事業は生活の贅沢品を扱っているため、あなたは、同じように強力に同胞へのあなたの奉仕を――この場合もやはり物質界において――表現することで、それを相殺することが必要である。
アリス・ベイリー「新時代の弟子道4」p.154
平和ボケとは、争いのない平和な環境が当たり前だと思い込むことによる危機感や当事者意識の欠如であると一般的には考えられているが、霊的な学習者は、物質界における日常のなかで、もっとカルマ的な観点から自身の生き方や在り方、あるいは行為や習慣を見直す必要がある。
瞑想者とは、高位のものを受け入れ、それを物質界で正しく表現する者である。対して平均的な人間は、低位のものを受け入れ、低位のものに条件づけられ、何も気づかぬまま、気分に応じて低位表現を余儀なくされている者である。「今そこにある危機」を認識できず、悪しき出来事に遭遇したとき初めて危機感に駆られ、慌てふためき、混乱したり泣き叫んだりする。前回の引用で言えば、「彼らはこれらのパワーの犠牲者であって使用者ではない」。自らを条件づけるパワーに動かされ蹂躙されるだけの犠牲者である。瞑想者や弟子たちは、逆に条件づけるものを自身すなわち魂で統御しており、したがって彼らは運命の犠牲者ではなく、「自身の運命の知的な支配者、統率者」である。
大部分の人々は情緒と欲求の界層から発せられるフォースと波動に反応している。……このエネルギーは、統御する魂によって意識的に操作されるか、魂とは無関係に三界の物質に備わっている固有のフォースによって活動へと駆り立てられるかのいずれかである。後者の場合、その人は自身の形態エネルギーとすべての顕現の物質様相の犠牲者である。もう一方の場合は、自身の運命の知的な支配者、統率者であり、マインドの衝撃力と魂の集中した注目によって、低位エネルギーを形態と活動へと向けているのである。
ホワイトマジック上 p.263
最後の部分は分かりにくいかもしれない。具体的に言うと、弟子は魂として、魂のエネルギーを用い、その高位のエネルギーと低位のエネルギーを混ぜ合わせ、そうすることで神の意志と法則に適った、カルマを生み出さない自然の働きとして、その意味で正しく、物質界でエネルギーを意識的に表現へと向かわせるのである。彼の役割は、人間の個人的な目的を神の目的に置き換えることである。そこにいわゆる行為者は存在せず、神の力が純粋な媒体を通して必要な表現を自動的に行うだけである。このようにすることで、弟子は後のカルマを生み出すことなく、あるいは過去のカルマを相殺し、やがてカルマの鎖から自由になる。
冒頭の引用は、まだその意識段階にない弟子に向けられた一種の警告である。裕福で贅沢で恵まれた環境にありながら、またそのような生活を送るだけの才覚を持ち合わせて生まれてきていながら、自身に流れ込むエネルギーを自分のためだけに使用し、あるいは人類の困窮のために使用せずに蓄積させるならば、それはあなたに災いをもたらしかねないという警告である。ここに恐れるべきものはない。理解が必要なだけである。人々は兄弟姉妹の困窮について考えないようにしている。普通の人は条件づける物質のフォースに無知であるため仕方がない。「オカルトの狭き門」をくぐらんとしている者は、生活の中で犠牲者であってはならず、逆に統御する立場でなければ一つも役立つことができない。
「どのような奉仕をしたらいいのか分かりません」という疑問をよく聞く。奉仕が強いられた活動だと考えているのかもしれない。道で倒れている人を見かけた時、誰もが助けたいと思うだろう。……とはいえ、私の友達は、東京で電車から降りた直後、軽い脳梗塞でそのまま倒れてしまった。意識を取り戻した後、何とか自分でタクシーまで歩いて病院に行ったと聞いた。誰も助けなかったのかと聞くと、「そんなものですよ」と苦笑いしていた。私は平気的な東京の電車の利用車を可哀想に思う。電車の人々で思い出したが、こういう体験が昔あった。十五の時、友達に助けてほしいと言われて、普段乗らない電車でその駅まで向かうことにしたのだが、電車に座っていると、顔面がボコボコに腫れ上がった無惨な顔の者が前に座っていた。大丈夫かと思っていると、すっと立ち上がって私のところへ来て、こっちへ来いと言われた。顔を変な目で見られたと思って腹を立てたのだろう。当時は怖い者知らずだから、因縁をつけられてものばしてしまえばいいという考え方だった。だから半分笑いながらついて行ったのだが、電車のドアの前あたりに呼ばれたあと、すぐにナイフを突きつけられた。一瞬で刺される状況である。払い落とすことも可能かと思ったが、穏便に話を聞こうと思った。自分はお尋ね者である。お前を殺すことなど何とも思わない。金を出せ。金など持っていない。ならば次の駅で降りろ。分かった。と言って目的の駅の一つ前で降りることになった。降りた瞬間に殴られた。これが効かないのである。仕方なしに効いたふりをして、しばらく殴る蹴るの暴行を受けながら、周囲を見ていた。電車の窓から誰もがこの光景をただ眺めていた。怖がりながら。電車の運転手か駅員か知らないが、この人たちも、青ざめた顔でただ眺めていた。自分が刺されるかもしれないから、気持ちは分かる。ただ、私はそのような人間になってはならないし、実際にその覚悟を持った人間でなければならないと真剣に考えるきっかけにはなった。
この後日談まで話すと和やかな笑い話になるのだが、そもそも何の話をしていたのだったか。奉仕とは、倒れている人を助け起こすくらい自然なことである、と書くつもりだったのだが、倒れている人、殴られている人、苦境に陥っている人、これらを普通の人は助けないという事実や記憶に直面した。するとこういうことになる。心美しき者のみ、美しき表現が可能もしくは自然であって、逆に心貧しき者は、苦しむ兄弟姉妹に無関心だったり、私とは関係ないと思ったり、当たり前であるはずの優しさや親切心さえ失ってしまっているに違いないと。だから、「どのような奉仕をしたらいいのか分かりません」ということになるのだろう。常に、誰かが困ったり苦しんだりしているのに、それが分からない、感じられないほど、心貧しくなっているのである。
書きながら己で納得することがある。なぜ人々が自我瞑想や欲望瞑想などに惑わされているのかがいまや理解できる。心貧しいのである。心が貧しいとは、未熟な低位我を放置しているという無知に起因する自己中心性である。我々は肉体人間ではない。だから、可哀想な目に遭っている者、また遭った者を何とか癒やしてやりたいと思うとき、その誰かを助けるためには死なねばならないとするなら、躊躇する者であってはならない。待てよ、助けようとすると自分が危ないから止めとこうか、などと考える前に、自動的におのれを顧みずに兄弟姉妹を助けられるぐらい、心美しく純粋な者になっていなければならない。そうすると、「どのような奉仕をしたらいいのか分かりません」という言葉は出ない。自分が良ければそれでいいという平和ボケにもならない。
人類自体が、現在助けを求めている状態である。あるいは無関心という病に侵されている。瞑想して、高位の意識に入り、また融合したとき、自分は完成したから他の兄弟はどうでもいいと言う者は一人もいない。完成とは、すべてが引き上げられて初めて完成である。小さな一箇の自己が真我へ帰還したからといって、それは高位の認識の始まりでしかない。個人つまり自我の目標が真我実現であることはかまわないが、真我を見い出すとは、個人など存在しないことを見い出すということであり、また神を見い出すということである。それすなわち、神の意識に入り、神の目的と計画を進化段階に応じて理解し、その内界での理解をいかに外界で正しく表現しうるかということが含まれる。これは行為とは実際は関係がない。エネルギーの正しい流入と正しい流出の問題であり、原因の世界の問題である。行為もしくは行為に見える動きや働きは、副次的なもの、自動的なもの、結果的なものである。このことを書き出すと、ここからさらに長くなるだろう。簡単に言えば、意識の焦点が、普通の人は自分が行為者であるという結果の世界での個人的肉体意識であるが、我々に求められているのは、結果の前の、その結果を可能にさせているエネルギーとフォースの世界、つまり原因の世界の認識と、そこでの働きである。例で言えば、普通の人は道徳観などから自己改善をしようと努力するが、そのような個人的行為の背後の世界に意識の焦点を移し、そこで乱れた自己を改善するよう働きかけるのである。
今回の記事では、当初はカルマについて書き、実際的にありそうな事例と共に、人々が無用なカルマを生み出さないよう、あるいは生み出してしまったものは相殺するよう、その深い必要性について書かれるはずであったが、多少一貫性に欠く内容であったとしても、いくらか重要なことは書かれたはずであるため、このくらいで終えることにする。
