滝に打たれて身心を浄めんと努めている者がいる。彼は、荒々しい滝の奥に空洞があることを知らないのである。空洞にこそ、沈黙と平和が行き渡っている。空道の先に唯一なる愛と調和がある。滝に打たれる自分に夢中なとき、人は背後に気づかない。滝行が垢離なのではなく、背後の空無が垢を取る。背後の沈黙が俗界の無知を叡智で満たす。背後の静寂が孤立した統一を教える。内なる沈黙の主、彼こそが真の自分であり、自我なる錯覚を導いた神仏であり、知恵と浄化の源である。
真の滝行とは、波動の行である。高位我のエネルギーに低位我のフォースを従わせることが滝行である。滝に打たれる者は、滝になることで消え去らねばならない。滝と調和し、滝そのものになることで、流れへ溶け込まねばならない。うるさい滝の背後に沈黙が響き渡っていることに気づき驚くだろう。これは、知っているか知らないかの問題である。自分や世の中という荒々しい滝に惑わされるのか、その荒々しさの只中に静寂を知るのか、知恵の問題である。知識は想念で惑わすだけだが、知恵は想念なきところに湧く内在の真に透明な泉であり、これに浴する者が聖人である。この領域では、もはやエネルギーとフォースの衝突はなく、ただ調和の主が一なる手綱を握る。これが至福である。
瞑想を自我で行うとき、人は諸体のフォースという滝に翻弄されるだけである。瞑想と言いつつ、自分でどうにかしようとしている。そうさせるフォースつまり力を見る者は稀である。その力を上から統御するものはさらに稀である。上から下という重力の法則は、そのまま瞑想にも当てはまる。高位から低位に流れ込むのであり、低位そのものは決して遡上できない。決して重力へ逆らえない。高位が低位に流れ込むとき、低位は高位になるのである。魂が自我に流れ込むとき、人間は人格を超えて魂になるのである。人々の瞑想が逆さまであることが知られねばならない。低位我の使命は、高位我に敏感に感応することである。下から上ではなく、上から下である。低位我の動きを、高位我の力で満たすことである。感応し、接触し、融合し、魂そのものへと熱中すること、ただ存在すること、これが真我探求である。
何かをするとは、何かを許さないということである。それは「する」必要がない。それはありのままにそれで良い。これが許しであり調和であり、知恵という名の禊である。「する必要性」や「しなければならない理由」は、錯覚に端を発している。だから「瞑想する」とは本来言うべきではない。瞑想が在るだけである。自我からすれば、瞑想を通して、高次の美が流入することを感謝することができるだけである。自我の暗黒に太陽が昇る美しさをかみしめ、すべてが許されていたことを知るだけである。すべてはすでに美しかった。裏見の滝である。思考は滝のように流れ続け、言葉や行為も流れに応じた表現として続くだろうが、その滝は打ちつける暴力ではなく、抱擁する愛になるだろう。すべてはひとつである。これだけが調和である。自我という葛藤、分離という衝突や対立、一切の不調和を打ち消すのは、すべての生命の一体性の認識である。焦点を合わせるのは滝ではない。自我ではない。すぐ裏に空洞がある。魂意識がある。ここから紡ぎ出される遥かなる空道がアンターカラナであり、唯一なる方へと引き戻す聖道になる。人が聖道を歩み、聖堂に学び、人として正道に固定されるとき、降下するエネルギーを妨げる要素は諸体のどこにもなくなるだろう。ここに、我という滝行は終焉を迎えるのである。