ある男が、霊的な教師に厳しく言われて、怯えていた。大きなカルマを背負い、真理に程遠く、資格に近づいてすらいないと叱られたのである。「怖いです」と男ははっきり言った。大の男が、目の前で震えていた。
私が瞑想したところ、真理は、我々を怖がらせない。それはありえない。賞罰の概念は人間にのみ存在している。カルマは、外的な個人、外的な世界における秩序の法則であり、単に見た目上の原因と結果を駆け巡るものである。それは家の外の話であり、真理は家自体である。人間の世界が原始時代であれ原子力時代であれ、彼らの文明を照らしているのは太陽である。彼らの世界は太陽なしには存在できない。太陽はカルマの作用を観照している。
この男は、間違いを指摘され、自身の至らなさを変えなければならないと思っている。そうしなければ、今生では悟れないと脅かされたのである。笑止という言葉がふさわしかろう。彼の教師は、進化段階で言えば、これを書いている者よりも上かもしれない。そういうことは、私にはどうでもよく思われる。進化段階もまた、外的なパーソナリティーの側面と関係している。それが聖者であれ、精神病患者であれ、外的な形態やパーソナリティーの背後に存在する生命は同一のものである。人間の家の話をしているのか、真の家の話をしているのか。
外を支配するのは個人ではない。法則が支配している。悪人だろうが、低い進化段階だろうが、それは個人の話であり、個人を支配するのは個人が身を置く世界の法則である。瞑想は、個人から外れることである。我々は自分を特定の誰かと思っているだろうが、その誰かと何の関係もなく内なる太陽は輝いている。自我と関係なしに、真我は存在している。
自我が素晴らしくなければ真我に到達できないと教師は言う。ある意味では同意するが、本質的には同意しない。人は私をどう見ているか。百人中百人が、真面目より不真面目と言うだろう。なぜなら、この世のしきたりに従わないからである。クリシュナムルティは、真理に至るためにはアウトサイダーでなければならないと言った。ジュワル・クール覚者の言葉で言えば、「秘教的な孤立」である。それは共に同じ意味である。それは外からの孤立であり、内なる統一である。
真理が愛ならば、どうして怖がらせることがあるだろうか。どこに罰があるだろうか。家の外の迷った人にのみ、その種の錯覚は存在している。真の教師が恐怖を採用することはない。なぜなら、真の教師とは自我ではなく真我と融合しているはずだからである。人を怖がらせるものではないことを知っているはずだからである。もし外を変えなければ内に至れないなら、永遠に誰も無理である。外が変わる原因は、外ではない。個人が自己改革することに成功するのは、個人によってではない。
個人が瞑想を通して発見するのは、内なる非個人である。この非個人だけが、個人を変性させうる。下から上ではなく、上から下である。逆転して考えてはならない。自分の周りを太陽が回ると考えてはならない。非個人は、個人とは無関係に離れて観照する者である。地上で行われているのが戦争であれ助け合いであれ、それらから離れて太陽は観照し、出来事を照らし続けている。個人は地上の者であるが、瞑想するなら太陽に貫通する。行為は観照に席を譲る。個人は一者に我を明け渡す。真の原因は真我である。その他は、結果でしかない。よく言われるように、”as above, so below”である。真我において、我々は絶対的に安全であり、一つも心配するものはない。怖がらせるものはなく、愛だけが存在する。これが事実でないならば、我々は絶望的である。
私は、外の教師を無視して瞑想してきた者である。霊的な本能として、内なる者に従えばよいことは明らかであった。瞑想が瞑想を教えることは自明だった。だから、そうしてもらいたいのである。外の誰かに頼る必要がないことを内が教えてくれる。悟りとか、夢とか希望とか、それらのつっかえ棒が人生に必要なら、つまり助ける側ではなく助けられる側でありたいなら、そういう話に浸っていても良いかもしれない。それは前の記事の比喩でいえば戦前にのみ通用するものである。自らと全体に不調和を見出し、それがすでに戦争中であることを知るならば、進化とか恩寵とか、そんな悠長なことを誰が言えるだろうか。人が生きるか死ぬかの危険にさらされるとき、即時の決断を迫られ、何に対しても「それどころではない」と言うだろう。同じことである。真の命か、偽の命か、この戦いが始まったなら、事は目の前に集中される。もはや想念では扱えないのである。どんな書物の話も目の前の真理においては無効である。どんな教師や覚者の話も、真の瞑想においては無関係である。これがアウトサイダーである。