気づきと瞑想

最近の文章について質問ですが、「法則違反」とは具体的にどういう意味ですか。

自分が思考・言葉・行動の原因であると考えるときに法則からの逸脱が生じる。目に見えるすべては結果であり、真我はこれらすべての結果の原因であり、同時にすべての結果と無関係である。

では、「法則との一致」はどのようにして可能になるのでしょうか。

行為や言動や感覚知覚といったものの主体が自分であるという想念がないとき、つまり純粋な気づきに意識が留まっているとき、エネルギーの誤用はなくなり、法則や世界や神の意志は正しく遂行される。人間はこのとき、自我の感覚がなく、それゆえ無限に至福である。

もっと具体的な、わかりやすい例を挙げてください。

歩いているとき、人は自分が歩いているという想念を維持し続けている。これが法則違反であり、苦痛の原因である。歩いている映像や感覚ではなく、その背後の単純な意識、つまり単に気づいているという意識自体に焦点と波長が合わせられているとき、歪曲する自我は存在せず、純粋なエネルギーと法則は乱れずに済む。瞑想はこの意識を習得させるものである。

気付きに焦点を合わせているのは誰でしょうか。

誰ではなく、気づきだけが存在するということである。気づきが気づき自体に留まり、意識が意識自体に依拠し続けている状態が純粋さであり、無知の夜明けである。

人間はいかにしてその意識に到達するのでしょうか。

自我意識を可能にさせる諸体のフォースを拒絶する力が登場することによって。人間のマインドがこの力を知覚したとき、彼はこの力こそが真に正しいことに気づく。なぜなら、この力つまり彼だけが非苦痛だからである。逆にいえば、彼以外はすべて苦痛だからである。こうして人間の目標は何かになることではなく、ただ存在することへと成長するが、同時に、すでに存在していることを知り、すべては最初から達成されていることを確認することになる。あとは、この感覚に留まり続けることである。さもなければ、また想念によって自我意識に堕落するだろう。

どうやってその力が登場するのでしょうか。ただ瞑想していれば登場するものなのでしょうか。世界には何十年も瞑想している人が無数にいますが、そのような認識に至っている人はごくわずかであると思われます。

その力を登場させたいという欲望から自由になることによって。あなたは欲望を見ており、自分が瞑想しても何も得られないかもしれないという恐怖を見ている。これらとあなたは何の関係も持っていない。あえてこれらの情緒的な想念にしがみついている目の前の現状に気づくこと、しかも独力で確認すること、このような習慣がやがては自我と魂とのつながりを確立し、さらには魂といつでも対話できるようになり、いかなる問題の答えをも一瞬で引き出すことが可能になる。こうして自我の破壊、自作自演の終焉が現実的なものとなる。

もっとシンプルに話してください。私は迷っている現在の自分から成長したいです。これも欲望として切り捨てるべきなのですか。もしそうなら、私は瞑想をしなくなると思います。そして絶望すると思います。

それで問題ない。自我には自由に絶望させればいい。あなたはそれらと全く無関係であることを確認すべきである。例えばあなたが絶望しているとき、それを見ている者がいることを確認してほしい。見ているのはあなたである。そのあなたは明らかに余裕を持っていることに気づくことができるだろうか。ここは非常に重要なポイントである。見た目上の自我に関しては、絶望している映像が流れ、その苦しい感覚があるだろうが、その錯覚に焦点を合わせるのではなく、実際は自分は安全であることを知っており、映像や人生と無関係に余裕であるという、背後の精妙な感覚を確認すべきである。見つけたら、あなたは困惑するだろう。なぜなら、もう困る必要がないからである。最後の文章についてよく考え、自らに適用してほしい。

私の苦悩は悲惨なほどであり、明らかに余裕はありません。あなたの主張する内容は、私において事実ではありません。あなたの意識は特殊であるとしか思えません。

そのような想念や感情と関わるとき、苦悩は現実であるように思える。その苦悩を良しとし、苦悩にむしろ友好的になり、苦悩が存在することに抵抗がないとき、苦悩が大きければ大きいほど、より簡単に内なる喜びへと到達できるようになる。あなたが感じている苦悩を、私もまた体験してきているのである。そして、いかなる苦悩からも逃れられないことを私は認め、諦めた。これが苦悩の受容につながったのである。すると苦悩は存在しておらず、すべて自作自演であることが知られ、世界はマインドのつくりごとであることが理解されたのである。

つまり、到達する方法は私にはないということでしょうか。

それを受け入れることが解放である。あなたはいま抵抗している。ありもしない困難を自ら作り上げ、作り上げたものにもがいている。これを自作自演と呼ばずして何と呼ぶだろうか。あなたが夢見るものは、すでに達成されている。したがって何か別のものや別の意識を求めるのではなく、自我のどのような欲望も諦めることが知恵である。このようにして、徐々に自我と関わらないようにしなければならない。私はそうしてきたのである。無視して、ひたすら瞑想でおのれに直面し続け、それを良しとし、何年も何年も魂に尽くし続けた。これは全く努力ではなく、病人が癒し手に喜んで通うように、全くもって自発的なものだった。私は瞑想が好きだった。この世の何よりも魂が好きだった。これほど魂に向かい続けるならば、魂からの報酬、瞑想の果実の収穫は自動的なものである。これが真の合一であり、真の結婚であり、唯一価値あるものである。

私は途方に暮れています。今後の指針として、具体的な瞑想方法を最後に教えてください。

その質問の動機をなぜ見ないのだろうか。あなたはひたすら架空のものに怯えている。見ること、確認すること、おのれと対峙することが瞑想の基本である。しかも、考察したり批評したりするのではなく、ただあるがままのものを、ただあるがままに見るだけである。なぜなら、われわれは他に何もできないからである。したがって、あなたはまだ、自我としてのおのれに何かしら能力があると思いこんでいることが問題である。あらゆることを試してみるといい。そして、そのすべてに失敗することを確認してもらいたい。私はすべてに失敗してきた。よってひどく絶望してきた。この苦しみを通して、私は素直になった。無力であることを認め、頭を垂れた。自我による瞑想から自由になった。したがって無私無欲に瞑想に向かえるようになった。こうして非常にゆっくりとだが、何が本物であるかを見出すようになったが、それらはすべて、魂の力によってであり、私によってではないのである。

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