- 瞑想に方法がないなら、私はどうしてよいか分からず途方に暮れます。
現時点の意識をAとして、求める状態をBとするならば、あなたはAからBに向かうことが瞑想だと信じている。これが全てのあなたの苦悩の原因である。事実は、Aが答えである。Aを知ることでヴェールは剥がれ、Aで在ることで秘められた神秘が知られ、最初からAであり、またいつであれAでよかったことを理解することで探求は終焉し、より高い螺旋状にて新たな探求が始まるのである。したがって、まことに神の名は「I AM THAT I AM」である。
- 私は魂を認識できていません。この状態のAですらそれがゴールであるとは信じられません。私はただの自我意識だからです。
最初は以下の順番で統御されるように信じられ、また感じられ、そのようにして瞑想は進むと思われている。
- 肉体→アストラル体→→メンタル体→→→魂
- 肉体・アストラル体→メンタル体→→魂
- 肉体・アストラル体・メンタル体→魂
- 魂→アストラル体(肉体)→→メンタル体
- 魂→メンタル体(肉体-アストラル体)
- 魂(メンタル体・アストラル体・肉体)→トリアッド→→モナド
1から3が純粋な自我意識であり、見習いの道に入るとやや逆転し、4以降の習得が実験的に開始される。弟子や第二段階のイニシエートは5を扱い、第三イニシエーションを受けるまでに6の道が知られるようになる。生命が肉体から魂へ、そして魂からトリアッドを介してモナドへと移行したとき、それが解脱であると教えられる。しかしながら、これらは錯覚に合わせた解説でしかなく、事実は、ずっと私は私であったということである。それが多少なりとも知られるのは5ないしは6の段階であり、したがって彼は何もしなくなる。錯覚は解除されるのである。
あなたはいま、1や2の段階の瞑想をしており、続けることで魂を認識し、4へと至り、魂として諸体を統御し始めるという逆転現象が起きるだろう。
- 魂の認識をはやめるための正しい瞑想は、私の段階でどのようなものでしょうか。
そういうものはない。あなたは自身が行為者であり、自身の努力の質と量によって未来を統御できると信じているが、実際は法則通りにゆっくりと認識の進展が訪れるだけであり、それが賢明であることを知らねばならない。
しかし、通常あなたの時期の意識は、諸体と自身を同一化しているため、自分つまり自我で何かを行おうとし、数々の教師を渡り歩き、数々の修練や訓練を実験してみる時期であるが、自我が自我の領域で真我に到達することはないことを知るためだけに、そのような暴れは生じている。やがて静かになるだろう。静かであるときのみ、何が正しく何が間違いかを知ることができる。あなたはいま、間違いに焦点化しており、その騒音ゆえに正しさが見つからず、A地点つまり現在に自我しか感じられず疑いを持っているのである。
- あなたの説明によると、私はただ座っているしかないようです。これで進歩するわけがないと思います。
そのため、あなたは色々と試すだろう。またこれまでも試してきたはずである。一つでも成功したものがあっただろうか。ラマナ・マハルシを読む人はたくさんいるが、「私は誰か」と唱えて成功した者が本当に存在するのだろうか。他人の物真似で到達することはないと私は思う。なぜなら、自身から逃避し続けているという純然たる理由がそこにはあるからである。おのれを見出すのはおのれのみである。したがって基本さえ分かれば後は本は妨害にしかならない。ただ静かに座し、おのれと向き合い、おのれから答えを引き出し続けることが霊的独学である。これができない者はいないため、続けてみてほしい。
- 明らかに助けになるものは存在しますか。例えば断食や禁欲など。
少食や菜食が助けになることは自分で実験し簡単に見出すことができる。しかしながら、これらが一手段ではなく目的にすり替わっている人は多い。特に第一イニシエーションを準備している生涯は肉体に焦点が当てられる。過度な断食をしたり、菜食や栄養学を研究したり、苦しみながら禁欲したりと、肉体の純潔さに生涯を捧げることに救いを見出そうとするのである。この段階で瞑想の真似事が開始されるが、意識の焦点が”肉体である私”にあるため、瞑想の進歩は期待できない。現代の熱心な瞑想者に必要なのは、魂の認識であり、魂との融合である。それは言い換えれば、A地点の認識である。
- 他に助けになるものを教えてください。
正しく生きることである。何があっても正しく生きると決意することである。命を捨てるような場面に直面しても、絶対に正しさを貫き通すという覚悟で善のみに生きることである。そしてすべての兄弟姉妹を愛することである。これらを決まり文句として受け流さず、本気でこのような生き方をすることである。私は失敗しながらもこの考えに固執し続けた過去がある。これにより、勝手に波長が高位のものに適合するようになったのである。だから、自分のことは諦めて、善や正しさにのみ生きる決意ができたとき、自我ならぬ魂が認識されることを知らねばならない。彼が現れたら、あとは彼に習うだけである。彼はあなたに無限の喜びと平和と慈悲を与え、また尽きることのない知恵の光明を与えるだろう。そのため、あなたはこの世の何よりも魂に愛着を持つようになり、生活のすべてが、すべての魂への奉仕つまり瞑想になるだろう。
- 私は自分の幸福や霊的な夢を諦めるべきなのでしょうか。
そのとおりである。
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