- 前回の記事にはとても違和感を持ちました。ラマナ・マハルシの弟子には何人も覚醒者がおり、弟子の弟子にも存在しています。いずれも「私は誰か?」という手法を通じてのものです。あなたはこれを知らないのか、「私は誰か? は逃避であり、物真似で到達することはない」と言い切っています。私自身も、「私は誰か?」を通して瞑想しており、効果を実感しています。そのため、前回の記事のマハルシに関する箇所は、何度読み返しても乱暴な断定だと思います。
マハルシの弟子の話はひとまず置いて、あなたは具体的にどのような効果を実感しているのですか。
- 内側に戻るとき、ダイレクトに深い瞑想状態に入ることができるという効果です。
内側にダイレクトに戻るとは、魂との融合を指すのか、あるいは努力によって魂との接触を維持している状態を指すのか、教えて下さい。というのも、どの段階であるかによって答え方が変わるからです。
- 私はトランス・ヒマラヤ密教を学んでいないため、あなたの記事によく出てくる「魂」なる用語に馴染んでおらず、そもそも一体全体何を指すのか分かっていません。
例えばマハルシは次のような言い方をしています。「真我探究で起こることは、『私』という想念が消え去り、探究を始めた『私』ではなく、深淵から別の何かが現れ、あなたをつかむのである」と。この、自我や肉体としての私ではない「別の何か」のことを私はひとまず魂と呼んでいます。また、「別の何か」がひとたび現れるや、その力があなたのことを最後まで面倒みるだろうとマハルシは続けています。つまり、現れて終わりではないことをそれは示唆しています。
そこで私の体験から言えることをまとめます。「別の何か」や「魂」もしくはそれ以上が現れている場合、それに固定するために、想念が起こるたびに「私は誰か」と自らに問うことで想念とは反対方向にむかい、現れているその固定先に何度も何度も引き戻し固定を試みる段階において、「私は誰か」は有効であると。
秘教的に言えば、アストラル体が統御され、魂として機能する段階に入り、目標が魂からメンタル体への統御になっている意識、つまり第二イニシエーション前後であるなら、理論的ではなく内的に実際に「私は誰か」と問う意味を知っているため有効だろうと。そうでない場合は無効であると。
一方で、ややそれより進んだ意識においては、固定先が認識されているため、と言うよりすでに固定先であるため、あえて「私は誰か」という想念に頼る人はいないと思います。マインドが外ではなく内に向かうことが平常化しているからです。このとき、自身に想念を通して何かを試みることは、逆に障害になります。そのためマハルシも、「その後、努力ができない状態になる」と述べています。このとき、想念の統御はほぼ自動であり、あとはこの力が持続するかどうかで、やがて人々がサマーディーと呼ぶ状態が訪れると思います。
- 「別の何か」は私には現れていないのでしょうが、瞑想で「私は誰か?」とあくまでも問い続けることは、私には効果を発揮していることは確かです。また、あなたが引用したマハルシの文章では、真我探求つまり「私は誰か?」を通して「別の何か」が現れると言っているのであって、あなたの主張である、現れた後なら「私は誰か?」は有効だろうという解釈は、読解力がないのか、およそ的はずれな見解であると思います。
幸いなことに私は読解に頼る必要がありません。読解が導くのは思想や主義であり、それはマインドの領域の個人解釈から永遠に出ないでしょう。「私は誰か」のポイントは、真我に固定することです。ここまでは誰も異論はないと思います。
あなたはまず真我の存在を認めなければならない。「私は在る」が真我の実現である。実現が起こるまで、その手がかりをもとにたゆまず探究していくことがヴィチャーラだ。ヴィチャーラと真我の実現は同じことなのである。……瞑想には瞑想する対象が必要になる。一方、ヴィチャーラにおいては対象がなく、主体だけがある。
ラマナ・マハルシ 「あるがままに」p.95であるならば、真我もしくは「手がかり」という固定先を認識できるときには、「私は誰か」で元の意識に引き戻すことは可能ですが、手がかりである固定先が分からないとき、「私は誰か」の意味は分からないと思うのです。私はかつて、自我で「私は誰か」を行っていた経験があり、成功しませんでした。やがて、なぜそれが失敗するのか、その意味を確認しました。確認したのは、「私は誰か」を使用することなく固定先に留まれるようになった後でした。その失敗の意味を専門的に言うならば、エネルギーとフォースを識別できていなかったこと、言い換えれば、自我つまり諸体のフォースと魂のエネルギーを識別しておらず、また調和させてもいなかったという意味です。この成功した見地から見返すとき、固定先の力ではなく、固定を妨害している自我のフォースで「私は誰か」と自らに問いかけても、前回の記事で言えばB地点を目指しているだけであり、それはA地点を認識できないがゆえのA地点からの逃避でしかないと思うのです。上記の引用で言い換えると、主体を見ずに対象を見ている状態です。
- あなたは完全に間違っている。マハルシの論旨は、真我を認識するために「私は誰か?」と問うことです。ですから、その中で「別の何か」である真我が現れるのです。それによって真我に固定できるようになるのです(推測ですが)。これがマハルシを読む人間の普通の見解・読解でしょう。
見解も読解もマインドの領域であり、マインドの領域を静かにさせるのはより高位の力だと思います。前者が自我を構成するフォース(力)であり、後者が真我からのエネルギー(力)です。あなたはおそらく前者の力と自身を同一化している意識状態ですが、それらの力を後者の力と調和させ融合させたときのみ、整列つまり真我への固定は可能になるというのが私が体験から語れることです。自我の力では決して自我の力を平定できず、自我の領域に真我は現れません。真我が立ち現れて、その力が低位のものを静かにさせるというのが私が瞑想で確認してきたことであり、皆さんに分かってほしいと思っていることです。
- では、なぜ自我だったあなたに真我が現れたのですか。
徐々に、自我では何もしなくなっていったからですが、それは真我の力によるものでした。この高位の力を知ることで、今まで間違った力と自身を同一化していたことを理解しました。この高位の力、「別の何か」が現れるために「私は誰か」は無意味でした。それは妨害するだけでした。なぜなら、そのときの私においては、フォースでフォースに挑んでいただけだったからです。こういった無意味さや無知が知られたとき、自然に静かになるものであり、したがってどのような自我による方法というものも瞑想ではありえないように思います。自身で自身を知ること、ただ見ること、理解すること、そして理解された実態に傍観的であること、そのままでいいことを知っていること、何もしないこと、反応せず、揺れ動かず、「あるがまま」をあるがままで良しとし続けること、これに気づいていること、これらによって自我は何もできず、自我は養分不足で弱体化し、「別の何か」が燦然と立ち現れますが、これを可能にさせるのもまた、「別の何か」の力だったことを知ります。よって、存在するのは唯一なるエネルギーだけですが、マインドが介在し、その介在が誤用に導く過程が見過ごされるとき、それは条件付けられてフォースになり、この力しか認識できないのが自我意識と自由意志の感覚です。この全体像をわれわれは自身の内部で見る必要があります。そのための瞑想ではないでしょうか。B地点に行くための瞑想は、決して瞑想ではないと思います。
我々が真我の実現と呼ぶ状態は、新たな何かを達成することではなく、どこか遠い目的地に到達することでもない。それはつねにあなたであるもの、そして今までずっとあなたであったものとして、ただ在ることである。あなたに必要なのは、ただ偽りを真実と見なすのをやめることだけだ。我々は皆、実在ではないものを実在だと見なしている。ただこの習慣を放棄するだけでいい。そうすれば、われわれは真我を真我として実現するだろう。言い換えれば、「真我として在りなさい」ということである。あまりにも明白な真我を実現しようと努力しているあなた自身を笑うときが、いつかやってくるだろう。
ラマナ・マハルシ 「あるがままに」 p.22