低位の力と高位の力がある。平均的な人間意識は、低位の力しか知らず、何事も低位の力で行っている。それは、低位我を自分と考えているからである。低位我というものは存在せず、それは想念が想像している想念でしかない。言い換えれば、思考者は思考が考案したものである。低位我や自我は実在していない。高位我つまり真我に抵抗して、一なる生命から独立して、肉体や思考や精神や感覚知覚や名前といったものを自分であるとか自分のものであるとか考えるため、そこに不調和と摩擦が生じ、苦しみを感じるか(普通の人は感じていない)、将来の苦しみの種を蒔くのである。一切皆苦というのは低位我の宿命でしかなく、高位我には関係のない話である。高位我の意識、つまりA地点に満足するならば、我々は常に至福である。そこでは低位の私がいないため、することもなく、重荷もなく、高位の力が自動的に高位我自体を助け続けるだけである。そこには分離したものなど何もありはしない。
問題は、低位我の個人意識に、高位の力がいつ認識され、いつ低位と高位を識別するようになり、いつ高位が低位を吸収するかということであり、これらを知的に促進させるのが瞑想である。だから瞑想は何かを獲得することではなく、最初から存在していたものを知るだけの、簡単なものである。それは誰にとっても難しいものではありえない。難しくさせるのは想念である。想念つまりB地点に拉致されている低位我だけが、瞑想の理論や体系など、ことさら難解な論理をこねくり回すのだが、真の瞑想者は常にシンプルである。誰に頼る必要もなく、どの本も読む必要がなく、私自身で常に完結である。この簡単な事実は、聞こうとする者にしか伝授できない。半信半疑ならば、瞑想してみてほしい。瞑想法などないし、瞑想を真に教えうる他人もいないのだから、ただ静かに在るだけでいい。しばらくすると、ごくごく僅かであるかもしれないが、幸福感を感じるだろう。瞑想を続けるならば、このような痕跡は拡大し、やがては本質自体に留まるようになる。これにより、世界は超越され、世界に関わらず至福であり、運命に左右されず不動であり、自分が常に何者であるかを知っている神聖意識に喜び続けるだろう。
- すみませんが、私はリストラされた中年の鬱病患者で、身寄りもない天涯孤独で、極貧で、悩み事や不安な事だらけで、収入もないのに家賃にお金を取られていく現状が恐ろしく、そのため炊き出しのある公園などでホームレスを選ぶべきか本気で迷っているような状況です。この現実に対しても、あなたは瞑想すればOKだ、などと言えるのでしょうか。私は瞑想しました。幸福にはなりませんでした。寝ても覚めても私は地獄です。
現実的な言い方をすれば、今は衣食住の確保と休養が必要である。加えて、高位我による精神衛生の守護が必要になってくるだろう。問題は鬱病の深刻度であり、休養のために最低限の衣食住を可能にさせる職につけるか、生活保護を受けることができるかどうかである。
- 新しく職に就く気力がもうありません。かといって、ホームレスで生きていく自信も全くありません。子供の頃からひどく病弱で、とりわけ寒さに弱く、雨に打たれればすぐ病気か低体温症で苦しみながら死なねばならないと思います。これを考えると、生活保護をもし受給できるならば、あまり人と関わらずにすむ簡単な仕事から始めてみようかと、ぎりぎりで思える感じです。
衣食住さえ確保できれば、鬱病は瞑想で治る。治ったらあなたは元気になり、より良い衣食住が可能になるだろうが、あなたが一番驚くことは、瞑想でいとも容易く鬱病が治ったこと、鬱病など存在してもいなかったことを知ったことになるだろう。つまり、瞑想の力、高位我の力を体験することで、今のあなたではなく、その力の根源の方が真のあなたであることに気づき、驚くべき錯覚から目覚めるのである。
- その言葉が本当ならばどれだけ嬉しいかと思いますが、瞑想で鬱病が治ることはないでしょう。少なくとも私には無理です。実際にどの医者も、鬱病に完治はないと言っています。
医者は瞑想者ではない。実際のところ、医者は何も治せない。治すのはいわゆる免疫の力である。そしてしばしば、医学や薬学は、この免疫の力を弱くさせる余計なことをあえてやっている。では、あなたの鬱病に対する免疫力とは何だろうか。鬱病や苦悩という錯覚を感じているのは低位我に同一化したときの意識である。瞑想を通して高位我を認識し、高位の力が真実の力であることを知り、自身の力と思っているものを全て高位の力に委ね明け渡すならば、一秒かからず幸福である。また一秒かからず治癒である。このときの意識で、あなたはどのような苦悩も感じることができないことを知るだろう。むしろ、なぜかくもすべてが美しく完全であるのか、その天上的な美の喜びに圧倒されるだろう。したがって、外的な世界とは関係なく、あなたは鬱病から即時に無縁になることができるのである。
パーソナリティーの深い悲嘆と不幸の直中にあっても、魂の喜びを知り感じることができる。これは秘教のパラドクスであり、決まり文句である。しかしながら、それは事実である。学ぶ者はこれを目指さなければならない。
アリス・ベイリー「ホワイトマジック 下」 p.68
- もし鬱病が本当に治るのなら、瞑想でそこまで自身を高める間、衣食住だけ可能になるような職につき、頑張ってみようとも思いますが、次の瞬間、もう頑張れないし、絶対に失敗するし、そうであれば死にたいという思いが勝ってしまいます。それでベッドにぐったりしていることだけでもう精一杯になります。もう力がないのです。
それはとても良いことである。低位我が弱体化しているとき、高位我を認識しやすくなる。もしあなたがあらゆるものに恵まれているならば、低位我は強大化し、瞑想へは決して導かれず、この世の遊びを遊び尽くし、この世の贅を尽くし続けるだろう。しかしあなたは(魂の演出により)不幸に恵まれ、自我の弱体化に成功し、自身が無力であることをすでに知っている経験豊かな者になった。あとは静かになり、静けさの中に平和と幸福の痕跡を見出し、そこから高位我の意識に入れる技術を知るだけである。それは決してB地点ではなくA地点であったことを知るだろう。つまり、頑張るほど到達せず、頑張らないほど到達する地点、つまりそのままのあなたでよかったという話なのである。あなたは一見すると不幸だが、実際は霊的に恵まれており、いま瞑想と真我に導かれようとしている。その直前は、常に闇を経験することになるが、私もそこを何とか乗り越えてきた経験があるため、あなたもまた乗り越えてもらいたい。したがって次の学習課題は忍耐と諦念になるが、やがて乗り越えられ、必ず助けられるものである。自身が鬱病であったことすらすぐに忘れられるようになるだろう。
- 申し訳ないのですが、瞑想してみようと思っても、次の瞬間には、やっぱり無理だ、やめておこうとなり、そのくらい力が沸き起こってこないのです。
無理にする必要は全くない。できるときにすれば瞑想は問題ない。休養が今は第一である。衣食住さえ確保されれば、しばらくは苦悩を伴うであろう休養生活のうち、瞑想してもいいと思える時間がやってくるだろう。そのときだけ瞑想すればいい。するとそのうち、瞑想の効果を否定できなくなり、瞑想が好きになり、瞑想中には苦悩がないことに気づくだろう。それがなぜなのかを確認してもらいたい。高位の力が真の名医である。高位の力さえ確認できれば、すべてはその力が導くものであり、自我としての私などおらず、唯一なるお方にただ導かれるようになるだろう。これが融合であり、調和であり、大自然であり、人間の最高目的である。
- 自信がないときや、打ちのめされそうになったとき、またメールさせてもらってもよろしいでしょうか。
もちろんです。