不幸ならば幸福になりたいと人は思う。ところが、そのどちらとも関係のない意識が存在し、そこへ人間は瞑想を通して入ることができ、その領域こそが本質的であることを私は学び、且つそれについて書いてきた。しかし、この高位我を人は最初から認識できないため、低位我の波動を少しでも高めることしか教えられない場合がある。
そこにも引き続き問題がある。例えば、悪い想念傾向を良いものに置き換えるよう教えても、完全には無理だと思うのである。怒りや恨みを愛や慈悲に変えよと言っても、努力はできても、簡単に変えることはできない。嫌いな人を許し愛すことは簡単ではない。これらは、低位我でできるものではないのである。高位我だけが、低位我を変性・変容させることを早く理解しなければならない。言い換えると、フォースでフォースは変性できず、低位のフォースを変性するのは高位のエネルギーだけである。
自己改善では、永遠に低位我を自己と誤認した意識がその錯覚の世界を彷徨うだけである。すでに改善されており、あるいは最初から改善される必要のないもの、つまりは高位我を人間に認識させることが真の教育であり道徳である。すると、人間は高位の意識に、瞑想を通してやがて入れるようになる。その結果、個人は常に高位に焦点を合わせている限り幸福なため、あらゆるそれまでの欠点や悪徳が徐々になくなり、より良い表現へと変化するのである。
結果、周囲の環境が良くなったり、幸運が訪れやすくなったり、悪いことが起こらないようにさえなったり、かつて願ったことが今になって現実になったり、おしなべて豊かさや喜ばしさへ導かれるようになったりもするだろうが、そのとき、良い悪いはもうないのである。またそのとき、与えられたものは小さな自分のためのものとは思わず、全体である自分、すべての兄弟方に尽くすために活用すべきものとして必ず認識される。真我のみが唯一であり、あらゆる二元を超えて唯一であり、それは幸福感には決して置き換えることのできない、いわくいいがたい霊的至福である。
瞑想の目的が、低位我の幸福であってはならない。それは欲望迷想であり、逃避迷想にしかならない。彼らは低い波動にばかり焦点を合わせているため、結局はそれに類似したものや出来事を呼び寄せ具現化させるばかりである。これを悪循環という。個人の幸福などは、諦めないといけない。それは我々のコントロール下にないし、どうでもよい話である。起こる結果にあまり興味をもたないようにし、簡単に喜んだり落胆したりする気分の乱高下を決して許さず、自分に関することに執着のない穏やかな不動の意識へ持っていくため、瞑想を好み、静けさを好み、自分より他人に奉仕することを好み、高い波動におのれを導き慣れさせていくことが重要なのである。
欲望を強く持ちながら、どうして魂を認識できるだろうか。言い換えれば、低位我と高位我がなぜ両立できるだろうか。あらゆる低位のもの、個人にまつわるものを苦悩を通して諦めることを学び、いわゆる煩悩的なものへ抵抗するおのれを投げ捨てて、高位のものへ徹底しておのれを捧げてきた者だけが、やがて低位から自由になるのである。そのとき、高位という概念はなくなり、低いも高いもなく、我々は一にして完全であることを認識するようになるだろう。 低位の欲望や逃避で瞑想しても百害あって一利なしであり、それらと縁を切ることを誓った清純な精神のみが、瞑想の道を許されうるのではなかったか。こういう真剣さが必要なのであり、また修行者の最初の心得である。だから、真の教師は常にいきなり瞑想を教えない。彼らは心の純粋さを重視し、正しい性格構築から教えるはずである。ここを頭でしっかり理解し、善や無害性に生きる事を確固として決意し、そのように実際に何年も何年も生き証明してきた者、つまり密やかで秘められた霊的試練を通過した者だけが、正しい瞑想に導かれるものである。間違った瞑想は頭痛や発狂や憑依や精神疾患や煩悩の強化などに導くだけの愚かしい悪だが、正しい瞑想は真っ直ぐに真我へと導く喜びに満ちた神聖航路である。