絶対に関する無題

私はすでに実体である。実体を知るためにそれを追求する者は決して見出さないだろう。なぜなら実体とは彼にとって概念だからである。あらゆる概念が無視され、関係ないと感じられ、想念を生むシステムがそれ以上の力に静かになったとき、概念ではなくそれ自体である実体が我として知られるだろう。そしてその実体はすべてに最初から遍満しているものであり、それしか存在していない。私は唯一であり、すべては唯一である。これを知ることが悟りと誤って呼ばれている事実認識であり、それは錯覚を生み出してきた概念たちから外れること、無関係であることで知られるこの現在の我つまり神である。神とは絶対である。マインドを通して見る相対的な世界の概念で文章や言葉は構成されるが、この分離した個我の意識からすれば、神は絶対であり一である。実際はどのような二元の概念もそこにはないため、それを二元の世界に属する表現で二元の脳意識に理解させる方法はない。だから到達するしかそれを知る方法はないが、到達する方法などないのである。私がすでに神である。神は概念だが、その名づけえぬ絶対を表すために単語を使用しているだけである。私しか存在しておらず、すべては私であるのだから、もはや二元の世界は終焉であり、何の用もないのである。いわゆる世界というものは去り、マインドのシステムすら飲み込んだアイデンティティーだけが残る。これが孤立した統一であるが、統一は概念である。その統一がすでに事実なのである。これを読んでいる者は、やがてこの意識に入るだろうが、その意識をまだ知らないのなら、知る必要すらないことを知らねばならない。なぜなら、実在はどこにも行こうとしないから。すべてが実在である。私が実在である。どこかへ行こうとできる類いのものではない。それをすべてと言いはするものの、区分けしたり分け隔てたりすることのない唯一なる全部である。真の我とはすでにそれでいい私のことである。そこには私という概念すらない。どの想念からも自由であり限定されぬゆえ、それは時間を超えて、永遠というこの現在において神つまり真我である。永遠とは非時間であり、単に概念から自由な実体を時間の概念から表現しようと試みたときに生じた概念である。つまるところ、個我にとってはすべてが概念であり想念である。無数の想念があり、無数の我と我以外があるため、AからBを求め続けるのである。この無知の終焉が個我の終焉である。それはA地点つまりすでに私はあるがままにここに在りそれ以上でもそれ以下でもなくだからそれでいいという人々の想念世界に対する完全なる無関心が導き教える実相である。

誰もがAからBに移行しようともがいている。Aを探求しないのである。探求とは言葉の綾でしかない。Aは探求されえない。探求するのはマインドである。Aは探求される前から実在である。探求しようとする精神は、実在を覆い隠しおのが迷宮におのれを閉じ込める。いかなる想念にも騙されてはならない。いかなる想念とも関係のないものが実在である。真我である。このことについて何も考えてはならない。その考えと関わらないことである。あらゆる想念とあなたは無関係であることを貫くことである。これは方法でも試みでもなくこの現在における事実である。だから、悟りという言葉がいかに幼稚であるかが知られるだろう。無知の憧れが悟りであり、知恵の当たり前が悟りである。だから無知とは何かを知ることが知恵である。そして無知とはただ思考や想念のことだったのである。したがって、私は何も知らないという感覚が事実である。私は何も知らないし、何とも関わりがないし、そのような想念や感覚すらないとき、あるがままである。在るがままとは、そのままの私でいいということである。この知恵が至福である。AからBの精神が、A’になったAによってAにとどまるようになり、Aすらなくなることが実相である。何もない。既知のものが何もないことが知恵である。知識がないことが知恵である。知らないことが知恵であり無垢である。この無垢が達成されたとき、三界では白痴と区別がつかないだろう。彼は白痴ではなく知恵であるゆえ、錯覚に無反応な状態なのである。彼の意識では、人々の世界は知覚されてもいない。この世界を見るためには、マインドを通す必要がある。しかしマインドと私は何の関係もない。人間の「私」はマインドである。人間の魂はだからマインドの子と秘教的に呼ばれるのである。魂がマインドを通して外や仮相を見るのではなく、反対方向に向き直り、私自体であるとき、人間の魂つまり意識は意識自体つまり純粋意識を知るのである。この意識が教えるのが、唯一なる生命であり、これが実相であり、実体であり、真我と呼ばれるこの私のことである。

「この私」である。それは探しても見つからない。私をどうやって探すのか。先ほど述べた通り、探求するのはマインドである。瞑想者の場合、探求は魂を経由した直観のことを意味している。この違いが分からないとき、いわば悟る者と悟らない者という線引きが瞑想者の間で生じてしまうのである。だからいま重要なことを言っている。マインドで私を探求してはならない。だから、魂との接触の知覚が最初に重要な理由がここにある。魂が実在の痕跡である。魂が霊へ導くのである。私を知るとは魂を知ることであり、真我探求とは魂を通して霊を知ることである。しかし世の中を見てほしい。みな、マインドで探求している。だから知られることもなく、悲しくも到達できないもがきに葛藤している。ないものをおのれで作り上げ、そのないものへ到達しようとあがいていることを知り、自縛から解放されてほしい。自らの想念の反対方向に真実は在る。つまり私がそもそも真我である。我々の私はマインドである。そのマインドのいかなる動きも魂を通した至高霊の力でしてねじ伏せられるとき、私はマインドの子としての私ではなく、それまでのどの想念とも無関係である真の我、絶対、唯一なる私である。

上の文章には欠陥がある。「魂とどうやって接触するのか」という質問を生じさせる。私が魂なのだが、普通の個我意識が魂を認識するためには、妥協して言うならば、努力と時間と学習と瞑想が必要である。これは一時的に苦悩を生じさせる。なぜならAからBという概念を採用することになるから。本当はAを知る必要があるのに、概念を用いてAに接近することしかまだ出来ないため、それは依然としてAからBでしかなく、一時的に知識を採用する時期である。私の場合は秘教の概念が自身に起こることと合致していたため学びの対象になった。内的に起きたことがすでに書かれていたのである。秘教とは、実際はアリス・ベイリーの本に書かれている内容ではない。あれはマインドの子のためにマインドに劣化させて天才が解説したものである。これを書かせた天才は、書かれていることが一時的な事実でしかないことを時折り強調した。しかし天才の書いた一連の教育書は、魂に接近するためには最良の教科書の一つである。あの本が難しいのは、書かれた内容が膨大であり、その膨大を一箇の統一した教えにまとめ上げるために専門用語をたくさん使用せねばならなかったからである。またそれらの用語が示すものを通常の人間は知らないからである。したがって「一時的な仮説」として読む必要がある。その仮説が実際の体験に一つひとつなりゆくだろう。そのとき、すらすら読むようになる。そして、読む必要性から解放される。一つの教育は常に卒業されるためにある。つまり、魂を知り、瞑想生活を通して魂と個人が融合の過程を過ごすならば、やがてその合一がある種のクライマックスを迎えさせ、根源である実体を実際に直に分からせるのである。それは私のままでよかったことを分からせるものである。ずっとAからBと錯覚してマインドの道を辿ってきたが、すべてはAだったこと、もしくはAがその超越へ導いたことを知るのである。言い換えれば、個人から魂、そして魂から霊である。それは文章ではAからB、BからCだが、実際には全部Aなのである。Aがどの等級の質料を纏っているかでおのれが何者であるかの意識が変わるのであり、我々の世界においては、自身という三体の材料である質料が最高の等級で構成されるようになったとき、仏教徒の言う解脱、キリスト教徒の言う復活、秘教徒の言う第五イニシエーションが完了し、この世に生まれるという現象をあえて体験する意味はなくなる。

これを書いている肉体は、これを書くように魂に衝動付けられ、その限られた翻訳能力を使用して書いているが、その望みは役立つことである。役立たないなら何の意味もない。どうやったら役立つのか。そもそも文章レベルでどう役立つのか。性質上、一人のための書き物ではない。概要や全般を記すことが主体となり、記事ごとにも、どの段階の意識に向けて書いているかで内容が変わる。無数の意識段階があるため、どこかだけに絞って特定の教えを示すということはありえない。この意味で、クリシュナムルティは最も純粋だった。一時的な事実すら拒絶した。それは真理ではないからである。しかし、クリシュナムルティに対してラマナ・マハリシは、「彼は達成したからそのようなことが言えるのです」と言っている。そうやって一時的な限定意識を認めたうえで、特定の方法を特定の段階の者たちへ教えた。しかしその「私は誰か」という教えが不完全であることも知っていたため、真の教えは「沈黙の教え」であると説いた。面白いことに、クリシュナムルティが教えようとしたものもまた「沈黙の教え」が意味するものなのである。それは魂の教えである。真我を啓示する魂の教えである。二人の表現の違いは、片方が一時的な限定意識に一時的な教えを説き、片方が一時的な教えでは到達できないことを教えたというものである。どちらも正しく、融合したあとはどちらとも関係がなくなるだろう。

瞑想する者は、この「沈黙の教え」に精通しなければならない。ラマナ・マハリシがそれを教えるのではない。それは自身である魂を経由した直観的な啓示に反応する探求能力を必要とするものである。マインドを使用せず、直観を使用する瞑想である。それは長年の瞑想によって内的メカニズムが発達することで可能になるものである。この長年という単語に書きながら苦痛を覚える。また書き方に失敗したかと思う。実際は時間はないのに、また時間という前提の想念では知ることができないのに、一時的にこの時間という概念を採用せねばならない。時間は想念である。瞑想でメカニズムが発達し、魂と融合することで想念は乗り越えられ、現在のこの私でよかったことが知られるが、その私とは、魂が外の肉体と同一化しているときは人間意識、魂が魂自体と同一化するときに純粋意識、というだけの違いである。いずれにせよ、個人の努力は終わるだろう。高次の力が現れ、その波動と一致することが法則との一致であると知り、個我は無我へと溶け去るだろう。瞑想がなければここへ到達できなかったことは事実である。瞑想を通し、私は瞑想とは何かを学んだ。誰であれ、唯一なる真我がその者に瞑想させ、やがて真我を自覚させる。自我で行う瞑想はいずれ限界が知られるだろう。魂がその限界突破を教えに来るだろう。それはスパルタ教育を遥かに凌ぐ厳しさである。沈黙の教えは拉致を含み、強要を含み、聖なる暴力を含む。ひとたび魂が来たら、やっぱりきついのでやめますは許されない。なぜなら、自我意識でいることが耐えられない苦痛になるからである。魂が来たかぎり、もう魂でなければ安らげなくなる。法則に違反することを反抗つまり犯行と呼び、カルマを生じさせ、真理に融合していなければ瞬時に苦痛という罰が下る。耐え抜くことの難しい道を、耐えるように押しつけられる険しい道である。このようにして、徐々に人は人でなくなっていく。「丸くなって」いく。個人は魂になる。分離は統一になる。苦痛は至福になる。物質は霊になる。死は復活になる。

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