人間は常に何らかの問題を抱えている。言い換えると、人間魂は統御できないフォースに囲まれている。彼らは、物事を活動しているフォースとして捉えることがまだできず、どのような問題も何らかのフォースでしかないことが分からないでいる。翻って言うならば、これらのフォースを魂が統御できれば三界で問題はなくなっていく。個別化していた人間魂、人間の意識は、唯一なる魂にして唯一なる意識に返還される。
神秘家は、形態と形態を超えたものを漠然と想念で扱い、例えば悟った者とか聖者や覚者といった概念に屈服し、理想と非理想のはざまでもがいている。分離した形態の世界を見ており、劣った者からより優れた者へと至ろうというアイディアに縛られ自ら苦しんでいる。これは、内と外の識別、つまり低位我と高位我の識別ができないためである。肉体人間を自分だと思っているのだが、瞑想を続けるならば、自分と思っていたものはすべて魂に吸収されるようになるだろう。つまり、人間魂は超魂に融合する。この高位我の観点からすれば、それ以下の界層、つまり三界の第七、第六、第五、第四という低位四亜界の物質質料の世界(つまりそれらのフォース)は、自身に何の影響も与えることができない。
魂である高位我が、それらの低位亜界を征服したとき、第三亜界、さらには第二亜界が征服の目標になる。第一つまり原子亜界さえも征服されたとき、三界のすべての物質質料は贖われ、彼は「マスター」になる。
普通の人間意識に話を戻す。これは「分からなくなっている」意識である。生の全幅において迷っている。結果、外の世界で何かを成し遂げることで問題を緩和しようともがくことになる。外的人間を通して行われるこのような経験を通して過ちを認識し、より高位へと至るため、それ自体を否定するわけではないが、自身という問題から自由になりたい場合、問題というものの本質を知らねばならない。理論的な前提を話すと、霊の顕現のための器が魂であり、魂の顕現のための器が肉体を含めた諸体である。我々の意識(人間の魂)は、マインドを通して外の物質世界と同一化している。このとき、我々の意識においてこの世は唯一の世界になる。したがって、この世で失敗すれば苦しみ、居場所がないほど追い詰められれば自殺せざるをえなくなる。こういう意識たちを常に助けたいのだが、本人が学ばねばならないため、助かり方を教えることしかできない。
その方法は簡単な話で、諸体を統御するだけである。外側の世界は問題ではなく、自身である三重の諸体――肉体・アストラル体・メンタル体を統御することだけである。統御とは、諸体の物質質料をより高位のものへ変性することであり、これは贖いの科学と呼ばれている。というのも、三界の物質は、そもそもがいわば「中古品」で出来ており、前に使っていた人の「手垢」にまみれている。これを根本から磨き上げ、混じり気のない純粋な「新品」そのものに戻してやる必要がある。なぜなら、中古品はその手垢によって苦しんでいるからである。この手垢のことを我々はカルマと呼んでいる。キリスト教徒ならば原罪と呼ぶだろう。したがって、地上の物質は過去に犯した相対的な過ちに対する相応の報いを受ける必要があり、それを通して学び、垢を落とし、中古から新品へと生まれ変わる必要がある。これを行うために霊は物質に宿っている。というより、目的のため、自ら霊は物質に縛られることを選択している。そのため霊つまり神は「大いなる犠牲」と呼ばれており、すべての物質の質料が引き上げられるまで地上に縛られることを選択している。
唯一なる神は、形態を通して無数の潜在的な神となり、神をかたどって創られたすべての形態に内在し、すべての形態の魂である意識を通して物質界にて贖いの科学に携わっている。それが我々である。転生を通して続くこの周期のかなり終盤までは完全に無知のまま進行するが、熱心に執着なく瞑想するような”意識たち”は、その時代においては進歩的であり、何が起きているのかを理解するようになるだろう。瞑想は、この贖いの科学において、低位四亜界の物質を征服させ、第三亜界へと意識を引き上げる。言い換えるとアンターカラナの前半、パーソナリティーと魂を融合させる。その後の瞑想は、最後の二つの亜界の征服に関与し、魂を介してメンタル界の原子亜界にまで到達したとき、アンターカラナの後半は完了し、魂はパーソナリティーという低位の三つ組からより高位の三つ組へと生命を移行させることが可能になる。それはアートマ・ブッディ・マナスであり、この高位の三つ組を通して働く霊へと我々は帰還し、霊つまり生命自体が自身であるという認識へ至る。これが真我実現と呼ばれているものの過程であり、これを理論的に理解したならば、あとは意識的かつ知的に日常生活を通してすべきことを行うだけになる。
しかし、行うのは高位我なのである。我々は低位我と同一化した状態で瞑想を始めるが、贖いの科学を進行させるのは高位我であるということを瞑想を通して認識する。よって低位我は何もしなくなり、低位我の動き、すなわち低位フォースには関わらなくなり、たえず無関係であることでそれらのエレメンタルは死滅し、低位は高位へと引き上げられる。低位我を自分と思っていた我々は、高位我が自分になり、低位も高位も存在しなくなる。したがって、この時期に学ぶことは、自身であるものの認識の移行、意識と生命の移行、魂と霊の移行、すなわち低位質料を統御することによる低位形態からの撤退である。すると、我々の世界は、いわゆるこの世と何の関係もなくなり、その錯覚の世界には巻き込まれなくなる。これを伝えたいのである。なぜなら、これを書いている者はかつて巻き込まれていた者であり、その時期の苦しみを知っているからである。苦しみは耐えられないほどのものであるが、内なる世界、魂の意識にさえ入れるようになれば、非常に物事はシンプルになり、問題はなくなっていく。言い換えれば、自身である諸体の低位質料つまり低位フォースに対し、瞑想を通して高位のエネルギーを適用する過程を意識的にこなし、受け入れ、気づいていることで、この進化と呼ばれている過程は急速に進展するのである。
以上で問題の解決方法を述べた。問題つまりフォースの統御方法を述べた。フォースが常にエネルギーに統御されているならば、やがて意識は引き上げられ、この世に顕現していながら、この世の影響を受けない、巻き込まれない意識、すなわち浄土ないしは天国と呼ばれるものを享受することになる。
なぜなら、白魔術は人類を形態から引き出し生命へと、そして物質から引き出し意識へと導くからである。
それほど昔のことではないが、偉大なる方々のアシュラムにて、一人の弟子が大師に、言葉は少なくても、その意義を常に考察するに値するような形で、この真理を表現してくれるように求めた。彼の大師は次のように答えた。
「人の子らだけが、右手の道の魔術と左手の道の魔術の違いを知っている。達成したとき、これら二つの道は消え去るであろう。人の子らが物質と質料の間に存在する違いを知ったとき、この時代の教訓は理解されるであろう。他にもまだ教訓は残っているであろうが、それらは乗り越えられる。物質と質料は共に暗黒を作り出す。質料と目的が混ぜ合わされたとき、それは光の道を指し示す」。
アリス・ベイリー「ホワイトマジック上」p.319