遅刻する人がいる。寝坊する人がいる。どうしても起きれなくてと言う。あるいは、すべきことをギリギリまでやらないで、時間ギリギリでないと始められない人がいる。そして結局は時間に追われてミスをしたり遅れたりする。このような人はどういう状態に置かれており、なにゆえにいつもそうなのであろうか。
それが低位であれ高位であれ、すべての界層の物質には三つの様相ないしは特質がある。それをヒンズー哲学などではサットヴァ(リズムと調和)・ラジャス(活動性)・タマス(惰性)の概念で説明している。「まだ寝ていたい」という気を起こさせるのはタマスである。意識が同一化している物質の割合でタマスが多いとき、「起きれない」とか「もう少しだけ寝ていたい」と言うのである。本来、睡眠は知的に啓明された人間にはそれほど必要なものではない。多くのいわゆる睡眠時間はおのれを知らないことによる怠惰、つまり無知に由来するタマスの増大・増長の結果である。
寝ていてすぐ起きれるのだろうか。何の苦痛もなしに、あたかも先ほどから起きていたかのように即座に意識を切り替え活動できるのだろうか。できるし、そうでなければならない理由を説明する。タマスは概念だが、タマスと呼ばれている物質の特質そのものを直接見るならば、それは完全に魂つまり我々に統御されるのである。「まだ寝ていたい」とか「明日のことなど考えたくない」とか思わせる惰性のフォースを我々は見るのであって、そう思わせる思考や情緒をどうにかしようとする必要はないのである。したがって、タマスを直接見るのは現在であり、タマスに(無知によって)動かされるのは非現在である未来か過去である。
例えば、しなければならないことができないとしよう。「しなければならないこと」をかつて「した」ことがあり、その記憶によって、好ましいか好ましくないかの感覚が条件づけられる。過去が未来を推測させ、思考が情緒を喚起する。これが気分と呼ばれるものであり、それは何らかの気の分量や割合のことでしかない。気の解釈が感覚や情緒である。そして、すべては気である。すべてはエネルギーであり、もしくは何らかのものに条件づけられたエネルギーつまりフォースである。タマスは、霊と物質が関係づけられるとき、物質に現れる三つの効果のうちの一側面でしかない。長いあいだ、このような特質によって人間の魂は動かされ条件づけられ錯覚させられてきたが、物質に備わる特質を直に見るようになるとき、すなわちエネルギーでフォースに相対することができるようになるとき、もはや物質のそのような側面を霊が経験のために使用する必要はなくなるのである。したがって解放や解脱と呼ばれるものは、この三つのグナで説明するならば、サットヴァがラジャスとタマスを統御すること、霊が魂と物質を支配することを意味している。この文章には思索の糧が含まれている。
ならば、どうすれば「直に」タマスやラジャスといった物質のグナつまり特質を見ることが可能なのか。サットヴァを覆っているのはタマスとラジャスである。逆にサットヴァがタマスとラジャスを支配したとき、サットヴァだけが顕現するようになり、完全な美や喜びや至福が達成される。理論的には、瞑想を通して流入するサットヴァのエネルギーが、タマスとラジャスを安定させる効果を及ぼす。言い換えると、霊つまりモナドのエネルギーが、二次的に魂を通してエーテル体にその威力をステップダウンして伝導させるとき、我々が纏っている三重の諸体つまりメンタル体・アストラル体・肉体の各々に備わるラジャスとタマスの割合が除去ないしは削減されるのである。こうして一定割合、霊の道具である魂がこの三重のパーソナリティーを統御したとき、いわば人間の目は魂の目に取って代わられ、意識は妨害を受けずに直接的に質料やフォースを扱うようになる。それがどれだけ出来るかは、どの程度、霊の顕現のための道具である魂が低位我を支配しているかに比例し依存している。
瞑想を続けるならば、徐々にラジャスとタマスは取り除かれ、諸体の質料はそれだけより高い等級のものになり、したがってその分だけ意識は変性・変容される。専門的に第三亜界の物質が諸体で優勢になるまで精製されたとき、人間はそれなりに魂の意識の中でありのままに物事や事物を見ることが可能になる。それは全く神秘的な話ではなく、言っているそのままの意味である。つまり、それまでのように想念や概念でものごとを見たり、その結果として感情や情緒として解釈するのではなく、それらの形態を纏わせた原因であるフォースや質料を扱うようになるのである。別の言い方をすると、人間は魂としてラジャスやタマスといった人間性をサットヴァ的に支配できるようになる。それは、常に物事の本質に気づいている状態であり、したがってそれは現在にのみ可能な話である。
「いま」や「ここ」に集中しようと努めさせる教えは、概念としては意味はあっても、本質的には何の意味もない。なぜなら、魂の意識に入ったとき、永遠である現在が知られるのであって、過去や未来に条件づけられたマインドの時間的な意識においては不可能だからである。時間は明らかに想念である。概念である。知的に啓明を受け、そのような概念が概念でしかないことが非概念の領域から理解されたとき、時間が我々を縛り付けることは不可能と言わざるをえない。時間は地獄である。天国は現在に在る。したがって天国は生得のものである。我々は今すでに現在だが、物質のラジャスやタマスといった様相と、またカーマやマナスといった様相に限定を受けるため、そちらばかりを見て、物質や形態の背後の特質そのものを捉えることができないのである。これは瞑想を続けることで解決される。その瞑想は正しい瞑想でなければならない。正しい瞑想とは、個人が行う瞑想ではなく、流入し伝導される霊から魂を経由したエネルギーに完全に溶け合う瞑想のことであり、諸体のフォースで瞑想するのではなく、それらをより高位のエネルギーに従わせる瞑想のことである。したがって瞑想とは、高位のエネルギーとの合致、合一である。低位我が進んで高位我に従うことであり、そうさせるのは高位我である。諸体がある程度純化され、諸体を織りなす物質の等級がより高い亜界のものに組み変えられたときだけ、このような自然意識は人間のものになる。それまでは瞑想が必要であり、初期段階では概念で接近するしかないため、正しい学習が必要である。そして、正しく学習し、正しく瞑想したとき、以下の話が理解できるようになり、そのような世界が見た目上の世界よりも重要になるだろう。
秘教徒はいつも質料を扱っているのであり、様々な界層を形成している生き生きとした振動する質料を扱っているのである。しかしその質料は、以前の太陽系から受け継がれたものであるため、過去の出来事に色づけられており、「すでにカルマに染まっている」のである。……秘教徒の仕事は、存在するものの「質料と形態」の側面から注目の焦点を逸らし、どのレベルであれ、形態を生み出す源になってきたものに気づくようになることである。あらゆる形態を支配している生命の特質に対する必要とされる感応力や感受性を自分自身の内に培い、最終的には、この惑星を活気づけ、その活動の中に私たちが生き、動き、存在を保っている唯一なる生命の特質に到達することが、秘教徒の仕事である。そのためには、まず最初に、自分自身を特質づけているエネルギーがどのような性質のものであるかを発見しなければならない(ここで支配する光線の性質を考慮しなければならなくなる)。このエネルギーは、三つの低位顕現体を通して表れており、後に統合されたパーソナリティーを通して表れるものである。自分自身がどのようなエネルギーに特質づけられているかを知り、特質づけられた生命様相に自分を方向づけるようになったとき、より一般的で普遍的な様相との接触の媒介になる精妙な内的メカニズムを発達させ始める。彼は自分自身の形態と全ての形態を作り上げている「原理に基づいていない」質料の特質、つまりカルマ的な素因と、そのような形態を通して表れることを望んでいる特質づけられた様々な原理を識別するようになる。付随して、次の太陽系の質料が現在の太陽系の質料よりも高い等級のものになり、結果的にロゴスの意志にもっと感応するようになるために、その形態をあがない、救い、清めるようになる。
アリス・ベイリー「新しい時代の教育 」p.109