光の道

肉体が「私」ではないことを理解しているかという問題。頭で理解しているだけならば、自身を肉体と思いながら依然として行動し生き続けるだろう。真理は、自身を肉体と思いながら理解できない。このことを強調すべきである。なぜなら、我々は肉体である私として学んでいるからである。そういう時期はあり、また経る必要があるだろうが、乗り越える必要もある。私が肉体ではないのなら、他人も肉体ではないのである。真の私はどの肉体でもなく、すべての顕現の原因である生命にほかならない。生命だけが在る。生命だけが実在である。私というものは想念であり、未熟な解釈である。いかなる想念にも支配されてはならない。真理は想念を超越している。真の私は想念とは全く無関係である。どのような想念であれ、想念は私を覆い隠す。

想念は私を覆い隠す。……そこで想念を統御しようと試みる必要があるだろうか。平均的な瞑想は、想念のコントロールぐらいに思われている。誰がコントロールするのかが問題だということに気づかないのだろうか。瞑想するのは誰なのか。瞑想する肉体である私が想念をコントロールするのか。この無知がすべての失敗の原因である。言い換えると、自我でみな瞑想している。知恵だけがこれを否定させる。自我であらゆる瞑想経験を積み、やがてそれらは瞑想ではないことを理解する。つまり、瞑想するのは私たちではないのである。焦点がずれていることを知らねばならない。肉体である私や、心である私や、想念である私が瞑想するのではない。このことを本当に見つめ、理解するならば、錯覚は消え去るだろう。私が見られたとき、その私は去るだろう。我々が私と呼んでいるものは存在ではない。したがっていかなる他人も存在ではない。存在しているものは、すでに存在しているはずである。私や他人という想念が錯覚として消え去るならば、覆い隠されていた真実の我が露わとなる。それは唯一なる生命である。

生命はすでに存在している。書物風に言えば、真我はすでに実現されている。私は肉体ではなく生命である。私は精神ではなく、また意識でもなく、生命である。物質が純粋になるとき、意識が純粋になり、生命の認識へと導く。自分が生命であることを知るならば、何を恐れるだろうか。何に困りうるだろうか。誰を批判しうるだろうか。他の誰かというものがどこにありうるだろうか。すべては一つの命である。世界は問題ではない。他人は問題ではない。お金は問題ではない。無知だけが問題である。私を知らないことが問題である。

生命は決して概念で理解できるものではない。想念は生命を覆い隠す。静かなる者にのみ生命はおのれを露わにする。だからといって静かにしようとするのだろうか。それが瞑想だろうか。瞑想とは、その騒がしい人を徐々に静かにさせる効果を持つものであり、それによって彼以上のものを教える手段である。「静か」とは何か。肉体を静かにすることは簡単である。誰もが静かに座る。しかし心は騒がしい。私は騒がしい。その騒音とは何だろうか。騒ぎ立てさせる力とは何なのか。この力を見ることが我々の、もしくは瞑想の課題の一つである。肉体はこのような力に動かされる自動装置でしかない。騒がしい心、騒がしい情緒、これらが肉体を普通は動かしている。そして動く肉体を私だと想念させている。この仕組みを内に見ることが求められている。この仕組みが自身における事実だと知られる必要がある。もし知られるならば、その動かそうとする力、騒ぎ立てさせる力が、肉体や精神と同一化している我々の問題なのではなかろうか。

同じエネルギーでも、それらの力は原理つまり霊性そのものに統御されているものではなく、物質に統御されている力である。これを秘教徒はフォースと分けて呼び、エネルギーであるが別の原理ならざるものに統御されているエネルギーとして変性の対象とみなしている。それは実際は物質ではなく、物質を組み立てている材料であるエーテル的な質料のことである。我々の世界であれ、その世界を映し見させている我々自体であれ、すべて何らかの質料で構成されている。意識は、生命である霊と、それら質料で構成された物質との相互作用の結果である。霊が父であり物質が母であり、子が意識である。我々は、意識を通して経験を積む。言い換えると魂を通して経験を積む。物質の経験である。しかし我々は霊つまり生命である。この美しさが見えるだろうか。霊はなぜ物質に閉じ込められることを選択したのか。霊の目的とは何なのか。肉体における人生の目的とは何なのか。

物質と質料は共に暗黒を作り出す。質料と目的が混ぜ合わされたとき、それは光の道を指し示す。

ホワイトマジック上 p.319

我々は肉ではない。物質ではない。このことを本当に知る必要がある。目的とは何なのか。目的と力と霊はここでは同義語である。これらが物質を、あるいは我々を動かす原理にならなければならないのである。したがって、暗黒を作り出している「物質と質料」に今すぐ気づく必要がある。対処すべきはここである。あらゆる問題の根本はここにある。しかし対処するのは我々ではない。低位我ではない。マインドは瞑想を通しこのことを悟るため、やがて静かになる。マインドと脳という自我瞑想ではなく、マインドは高位の力の存在を認めるようになり、自身ではなく高次の力にすべてを明け渡すようになる。よって「意識的」になる。これが観照へと導く。この意味がわかるとき、我々は何もしなくなるだろう。何かをする者はいなくなるだろう。そのような騒がしさは静けさに席を譲るだろう。このとき、真理を覆い隠すものはなくなり、想念はその活発な活動をやめ、我々は想念という形態・物質にもはや閉じ込められなくなり、物質と霊が和解したことを知る。質料と目的が合致したことを知る。これが我々の人生の目的であり、光の道である。

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