- 「我々にできることは気づいていることだけである」とあなたは仰いました。そして私は気づこうと心がけました。そしてそれが間違いであることに逆に気づきました。なぜなら、そこには新たな努力があり、必然的に葛藤や抵抗による苦痛を伴わねばならなかったからです。そこで、「気づこうとすること」と「気づいていること」は異なる状態だと結論づけねばなりませんでしたが、いかがですか。
そのとおりだが、少し浅い段階で「結論」へ逃避しようとしている。次に見るべきは、「気づこうとする行為」によって生じた苦痛である。苦痛が間違いを教えた。気づいていない自分から、気づいている自分へ改良しようという意図と行為があなたに苦痛を与え、これは間違いであると気づかせた。この瞬間、ほんの一瞬であれ、あなたは「無行為」に入ったのだが、肉体脳はそれを感知せず、次に訪れた結論、「気づいている状態は私には不可能である」という想念への賛同と同一化が生じ、この質問が始まった。あなたは、「できなくてもいい」ことを次に知らねばならない。何かをするとき、必ず動機があり、ゆえにそこには努力と苦痛が伴う。これを見るとき、我々は何かをすることがむしろできないし、できなくてもいいのだという行為の終焉へと導かれる。このときのみ、我々は調和や平和の意識、全く何の葛藤も努力も行為もない魂意識に入ることが可能なのである。そしてこの意識が、我々に真の降伏と幸福を教え、それが自存のもの、内在のもの、現在であるもの、つまり真の私であるもの、という知恵へと至らせるのである。
- いかなる結論や気づきもまた想念にすぎず、乗り越えねばならないということですか。
理論的には。しかし、「乗り越える」ことは我々がすることではなく、気づきと知恵によって自然に起こるものである。瞑想で鍛え上げられた静かな精神だけが、つまり静かなマインドの先に、新たな、しかし原初である純粋な意識領域がある。我々が真に学ぶのはこの領域においてである。我々の現在の知性の定義はこの領域で覆されるだろう。この世では無知で無学な人も、この領域によって真に知的になる。したがって、将来の知性は現在の低位マインドの練度のことではなく、その終焉による高位マインド、さらには直観つまり瞬間的かつ直接的に知る能力のことを指すようになるはずである。
- その静かな精神は決して獲得しえないもの、つまり努力とは正反対の方向に在るものならば、我々人間には、何もすることができないということになるでしょう。その考えに対し、精神は恐怖を感じたり、異論を唱えたりするでしょうが、それらもまた見ることによって克服されていくのでしょうか。ならば、結局は「見る」ことを「する」ことにはならないでしょうか。
ならない。「見る」ことと「する」ことは逆の状態だからである。あなたは再び自我で解釈した。「見る」と言うより「目」と言った方が良いかもしれない。それも単に分かりやすくしたいがための表現でしかないが。結局のところ、それは魂と連結しているときの目、魂の目のことである。
- つまり「第三の目」のことですか。
第三の目とは、魂の目の道具である。それは魂と肉体の関係と同じようなものであり、魂の目が発達したとき、マインドは魂の窓でしかなくなり、新たな領域を照らし出すようになるのだが、そのときに使用されるのが第三の目であり、これはより物質的なもの、専門的にエーテル的な対応物であり、魂から流入したエネルギーを方向づけるときの媒体である。
魂の意識に集中し、魂とマインドを融合することによって一体化を引き起こす能力が生まれ、そのとき、人は「自らのハートの中で」考えはじめることができるようになる。そのときまた、「魂の目」が開き、魂のレベルからのエネルギーが知的に利用され、そのレベルから方向付けられるようになり、「第三の目」と呼ばれているものへと流れ入る。そしてすぐに、三界のパーソナリティーは物質界において魂としての自分自身を表現し始め、意志と目的と愛が統御し始める。
アリス・ベイリー「新時代の弟子道6 」p.74- 私には理解が難しいようです。シンプルにしていだたけますか。
私が「見る」と言うとき、それは「魂の目」のことを言っている。だからといって、低位マインドによる「見ること」を阻害するわけではない。我々が見るとき、それは考えることである。これは重要な過程であるが、魂のレベルの視覚が発達したとき、我々の考えるマインドは静かに魂の目が見るものを三界の個人に伝達する器官になるのである。このとき、我々は考えることなしに考えることができるようになる。それは低位マインドと高位マインドの違いを表現しているにすぎない。この能力の正確性は、諸体の透明度、つまりどの亜界の物質まで魂が征服しているかに依存する。
- 我々は熟考できます。この状態はまず違うということですね。
その熟考は、低位マインドの使用中を意味している。低位マインドの理解が、徐々に人間を霊的にさせる。つまり、瞑想する気を起こさせたり、霊的なものを志向するようにさせる。その意味において熟考はある段階における梯子になる。ひとたび瞑想が習慣になったならば、次に重要なのは「マインドと魂を融合」させる能力である。マインドが魂に従っている状態である。このとき、まだ想念は次々に生み出されるだろうが、この想念を纏う低位マインドの動きに苦痛を感じるようになるだろう。なぜなら、想念は純粋な意識に対する抵抗だからである。したがって、想念ではなく、魂にだけ集中していようという意欲が発達するようになり、想念がなく、魂で在るときだけ、純粋に平和であり、調和であり、幸福であることを人は理解するようになるのである。
- あなたはどうやってその状態に至ったと思いますか。
魂が、怠惰な人間に文字通り鞭を打ち、無知を追い払ったのである。瞑想を続けるならば、日に何度か、あるいは一定の時間、瞑想状態に入らねば生きていけなくなるだろう。つまり、魂がパーソナリティーを強引に瞑想させるようになるだろう。ここまでは大丈夫だろうか。
- いえ、私は個人的な意思で、定期的に瞑想をしようとしています。
ならば、もう少し続けていくと、瞑想中の幸福が正しく、個人の感覚的な幸福は間違いであり苦痛であることを理解するようになるだろう。それゆえ、瞑想しなければ、通常の生活ができなくさえなる。もっと専門的に言うと、波動が上がれば、下がった状態で生きることは苦痛でしかないのである。ここに多くの弟子たち、特に第一段階と第二段階のイニシエートと区分されている人たちの戦場がある。なぜなら、一般の人たちの中で話したり仕事をしたり生活をしたりするとき、波動を落とさないといけないからである。このとき、周囲の人々がたとえ肉体的に静かにしていても、うるさく感じるようになるだろう。波動がうるさいのである。「気配」という言葉があるように、真に静かな者は気配を消すことが可能である。普通の人間は、思いたい放題の野放し状態にあり、これが気配のうるささにつながっている。だから、このような時期は、なるだけ静かで感情的でない仕事や生活環境が好ましい。何度も失敗するだろうが、根気強く義務を果たしつつ、瞑想を第一に重視した生活を送るならば、後は魂が助けてくれるようになる。これは瞑想者が最初に直面する大きな報酬であり、いわゆる恩寵である。
- つまりどうなるのですか。何が違うようになるのですか。
魂が個人に勝つのである。あなたは、あなたを撤退できるようになる。随意に魂の領域に帰れるようになり、不幸が基本的には終焉する。個人的に不幸な周期が訪れても、あなたは魂として、錯覚に惑わされず、またこの世や現代の常識などの尺度に惑わされず、途方もない昔も、今も、そして将来も存在する同一の太陽のように、どの時代に生まれようが、もう惑わされることはなくなる。個人の輝きは、内なる太陽の光に消し去られ、真の暖かさを常に知るようになる。これは次の生涯も壊されることはない。あと何回かこの世での生涯はあるだろうが、そのたび、低位我はこの魂に帰還する能力をもって生まれるだろう。どの生涯も厳しいものになるだろうが、その厳しさを打ち消し、常に内在の愛と喜びと至福に結局は導かれるようになるだろう。個人は終わり、同時に不幸も終わる。瞑想がこれをもたらすことを私は伝えたいのである。
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