人でなし

外的な物質界でのつながりが切れることは、最も過酷ではなく最も一時的なものである。死そのものが大いなるイリュージョンの一部であり、私たちが周囲をヴェールで覆ったために存在するにすぎない。……死はすべての人に訪れるが、弟子たちの場合、通常見られる苦悩やグラマーはないはずである。過去を振り返らないようにと言いたい。その方向にグラマーと苦悩がある。大多数の人々はそちらを見ており、そうすることが最も抵抗の少ない線である。しかし、あなた方はそうすべきではない。

魂の高みへと達しなさい。そして、あなたの魂が平安の山頂と喜びの高みを探し見つけたならば、生きている人々の世界を覗き込み、魂が認識でき、認識するものをその世界で見つけなさい。自分自身の苦悩というグラマー、過去というマーヤはその人の視点を歪める。魂だけがイリュージョンの影響を受けず、魂だけが物事をありのままに見る。であるから、魂へと登りなさい。

アリス・ベイリー「新時代の弟子道5」 p.25

我々は記憶に生きている。かつて起きたことはすべて記憶や想念の中にしかない。時間は、現在に対する連続という脳の反応が生み出すものでしかない。現在という神性を覆っているのは、脳反応の蓄積である記憶と、それが引き起こす時間の感覚である。現在しか存在していないが、人は過去を見ている。ただ想念を見ている。あるいは過去の経験と記憶から未来を推測し、再び想念を見ている。偉大なる現在は、想念によって覆い隠されている。過去によって、現在に翳りが生じ、ありのままを見ることも感ずることもできないのが人間の打破されるべき意識である。純粋な現在は喜びに満ち満ちている。この喜びは、魂に起因するものであり、意識の焦点がもはや低我ではなく高我へ移行したことを印すものである。この喜びが正しさであり、それを曇らせるものはすべて錯覚であることが見出されねばならない。

同じように、私はしばらく前に猫を失いました。私に懐いてくれて、いつでも一緒にいました。この猫が死んだのに、簡単に忘れるということは、人間としてひどいものだと思います。ですから、毎日、可能なかぎり思い出してやることがせめてもの供養であると信じます。でないと、あまりに不憫です。辛いときに助けてくれたのは猫でした。その猫が死んで、どうして「魂の喜び」などに浸っていられるでしょうか。それこそ逃避ではないのでしょうか。あなたが引用する文章の「弟子」なる者らは、たとえ可愛がってきた猫やペットが死んでも、本当に思い出しもせず、何も感じもしないのでしょうか。私には、それは「人でなし」のように思われます。

弟子は魂意識に入っている。彼らは、悲しみや苦しみを感じることができない。どのような想念も拒否され、現在に意識は固定されている。それゆえ、死んだ生き物のことを思い出したり、思い煩ったりすることがない。なぜなら、何も死んでいないことが分かりきっているからである。彼らはあらゆるものの魂への愛着のために、形態への愛着を放棄した者たちである。

低我は人格だが、魂は人格がない。したがって「人でなし」は正しい。それは聖なる領域であり、あらゆる無知の暗黒に光を投げかける偉大なるセンターである。人格は過去の結果だが、非人格は現在の証しである。我々は、内なる神性を暗黒に変えるものへしがみつく無知のことを逃避だと感じる。反対に人格は、人格から離れることを逃避だと考えている。つまるところ、低我と高我のどちらが自分であるかによって、何を逃避と呼ぶかは変わるだろう。あなたが人格や低我にしがみつくのならば、それが経験され尽くされたとき、錯覚と関わることの無意味さを単に知るだろう。そして魂へと登り、あらゆる人格的・人間的なかつての興味に関心を失い始めるだろう。

ペットロスの言いようもない辛く悲しい気持ちは、引きずっていても仕方がないとは思いますが、それほど簡単に乗り越えられるものではありません。

まず、悲しみとは何なのか。ただのアストラル界のフォースでしかない。感覚に命名した後、悲しみと呼び、それに確たる力を与えるのである。感覚そのものを見るならば、それは消え去るものである。逆に感覚を概念化して命名し「悲しみ」などと呼ぶとき、あなたはそれを作る。そして「悲しみ」を吸い尽くすために、記憶を利用し、死を利用し、悲しむべき理由をさらに探し始めるのである。悲しむために悲しんでいる状態である。これら一連の動きは常に自作自演であり、霊的に必要のないものであるが、アストラル体には必要なものである。どちらにあなたは奉仕したいのか考えるべきである。


魂との連結が微弱な場合、悲哀や苦悩といったグラマーつまりアストラル界の錯覚に人は太刀打ちできない。魂が自分ではない場合、人は現在ではなく過去に縛られることになる。このような悲劇の道をあえて歩む必要はないことは、もっと知られるべきである。ほとんどの人間が魂を発見していないゆえに、発見している者は聖者とかイニシエートとか呼ばれるのだろうが、それはジョークなのだろうか。どのような人間も等しく魂である。つまり、「違い」というものは何もない。

それなのに、なぜおのれを下位に起き、外の教師の本を読むのだろうか。あるいは救世主が到来することを切望するのだろうか。進化段階や様々な弟子の身分を認めるのだろうか。こういうことを否定するわけではないが、内なる発見をそれらは阻むものである。基本的な禁止事項などは知っていた方が良いだろうが、そのあとは、すべて独学で魂まで登ることが可能である。というより、独学以外には不可能ではなかろうか。なぜなら、その魂の宿題を、代わりにやる別の魂はいないからである。どれだけ偉大な教師であれ、そのようなことをするのは許されていない。我々は、ただ静かに座るだろう。無理に想念を押さえつけようとする必要はなく、想念だろうが情緒だろうが、同一化する前にそれに気づき、ただ眉間から見るだけである。やがて見る者も感覚も去るだろう。

瞑想の初心者は努力をする。それはエネルギーとフォースを識別できないためである。個人の動きはすべて低位諸体のフォースによるものであり、それらをどうにかしようという意志や試みもまた、低位フォースがさせるものである。こういうのが自我瞑想であり、最も無意味で危険な瞑想である。瞑想とは、全く何もしないことである。「する」のは魂である。低我が静かになるとは、低我が「しなくなる」ことである。平均的な瞑想は、その低我で何かを行うものである。

魂の観点からすれば、自我や低我で何かをすればするほど、魂を介して伝わる霊的な力やエネルギーは覆い隠され無効化されるだけである。騒がしいあまり、魂が助けようがないのである。左を向いている人に右が見えないのと同じ理屈である。人生を共にしたかけがえのない伴侶が死のうとも、あるいは愛情という愛情を注ぎ尽くした犬や猫が死のうとも、そのどこが問題なのかと言えるのが弟子である。全く何の関係もない意識領域にいるのが弟子である。外の世界の話に弟子は生きていない。過去や記憶に弟子はしがみついていない。おのれのハートのすべてを魂に捧げてきたのが弟子であり、彼において外の出来事は起きてすらいない。

とはいえ、魂と接触するのに、長時間の瞑想や修行はいらない。低我の努力は高我の到来を遅らせるだけである。見習いの弟子は努力を通して学ぶが、弟子は低我では何もしない。自らは行為者でも力でもないことが知られている。そこまで登るのに、日に一時間か二時間の瞑想でおそらく十分だと思うのである。後に瞑想の定義が変わり、ずっと魂の意識を保持すること、引きずり落とそうとする低我と関わらず魂であり続けること、その高き波動の維持が目標になるとき、24時間瞑想に耐えられる器が必要とされるが、ただ魂を見つけ出すだけであるならば、一日のわずかな時間を瞑想に捧げ、瞑想で学んだこと、その正しさを日常で生きようとすることで、急速に波動は高められ、無意識的な生き方は終わり、日輪の輝きを隠すものは何もなくなるはずである。このとき、弟子は弟子という錯覚からも自由になり、いかなる身分にも束縛されることはなくなる。こうしてマインドは徐々に克服され、魂は三界のイリュージョンから学ぶものは何もなくなる。

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