- 私は亡くなった人や動物に、死後、再び会えるのかどうかを聞きたいのです。信頼できそうな書物では、我々の死後、必ず元気な姿で再会できるものと書かれていますが、ならば今すぐ私は死にたいという想いに葛藤しているのです。
このブログは瞑想に焦点を当てているため、瞑想の観点から答えるならば、私たちが瞑想を習得できなかった場合、肉体の死後、エーテル体から自由になった後に、アストラル界に長く留まる羽目になるだろう。瞑想者は、肉体を纏っている状態で、アストラル界のみならず、メンタル界すら超越する者であり、その意味で、瞑想とは生きながらの死であり、且つ、生きながらの死からの復活である。これを達成した場合、私たちに死というものは存在しなくなり、肉体から自身を解き放った後は、アストラル界にも低位メンタル界にも行くことなく、直接的に魂の界層に移行するだろう。それを、生きている時に達成するのが瞑想者である。したがって瞑想する者にとって、死という概念自体がナンセンスなものである。
- ですから、私の瞑想は、愛する者の死に無力だったのです。瞑想者は、これほどの想い、死んでしまった愛する者へ再び会いたいという切望すら放棄するのでしょうか。それは並大抵の精神力ではないように思われます。
努力して放棄するのではなく、錯覚よりも知恵が上回るのである。したがって瞑想者の放棄にはいかなる葛藤も伴うことはない。マインドの超越は、信じられないほどの至福を伴うものである。至福という言葉も全くその状態を表すことはできていない。つまり瞑想は真我を啓示し、真我の途方もなく素晴らしい威力が、偽我と想念の世界を易々と克服させるのである。世界や、世界に属するあれやこれ、私や他人といったものは、メンタル界のイリュージョンであるが、あなたは現在、アストラル界のグラマーに苦戦している。アストラル界もまた、マインドによるイリュージョンである。死後の世界や死者との再会など、その種の話は、真我を見い出すということに失敗した魂たち、いわゆる輪廻を延々と繰り返している魂たちが作り上げた一時的な話である。瞑想者は、瞑想で魂と個人を融合させるため、そのような界層の話や欲求は、魂によって克服されるのである。したがって全く精神力の話ではない。
- 死んでしまった愛する者の魂はどうしているのでしょうか。もう大丈夫なのでしょうか。そのことがただ気がかりなのです。
個人意識の観点から答えると、あなたの悲痛な心情によって、死んだ者は苦しんでいるかもしれない。死んだ者は、もうその肉体に制限されていないため、あなたより元気である。ただ、波動が違うため、死んだ者はあなたに触れることも話しかけることもできず、大丈夫だからどうか立ち直ってもらいたいと思っているだろう。しかし瞑想者は、このような話や想念とも関係を断ち切る必要がある。個人がそのアストラル体を魂によって統御したとき、悲しみや苦しみや「自己劇化」は終わる。つまり自作自演はもう完全にバレており、情緒や感情は瞑想する者を騙すことができなくなる。この話は秘教的には第二イニシエーションと関係しており、このイニシエーションが現在の人類に最も難しいのは、そのような激情や劇場化が蔓延しているからである。これはあらゆる伝染病よりもやっかいな、人間から霊性を無効化させる暗黒である。しかしながら、瞑想とは第三イニシエーションと関係するものであり、それはメンタル界と魂、ひいてはそれ以上のもの、言葉を使用するのが憚られるほど神聖な……と関係するものであり、アストラル的な苦闘の段階は早急に取り除かれねばならないものである。
- 私が愛する者への愛着を乗り越えられずに死んだ場合、私は死後にアストラル界に囚われることになり、克服できなかったため、次はまた別の肉体で輪廻を繰り返すから無意味だという趣旨でしょうか。なぜ神はこれほど我々を苦しめることをするのでしょうか。
神とは何を指しているのだろうか。それはあなたの想像力の産物ではないのだろうか。神は人間の共通概念かもしれないが、それぞれが別の神を個人的に思い描いている。したがってそれは真実のものではない。空想である。そのような空想であなたをたぶらかすのはマインドである。マインドは、我々を騙すことが仕事である。ここに気づかねばならない。真理は、想像の領域にはない。想像の領域では、あなたが陥っているような自己劇化や自作自演がひたすらに繰り返されるだけであり、それは霊性と切り離された結果である無知が指揮をふるう無限地獄である。延々と、ありもしない幻を追い求め、それが幻ゆえに迷うだけである。だから、まずおのれが何者であるのかを知らねばならない。その手段が瞑想である。瞑想でおのれを見出すとき、生きながらにして、死や輪廻は克服されるだろう。
我々は、想念を見ており、その想念は自ら作り上げたものである。想念の次に、情緒や感情が呼び起こされる。それらを、普通の人は、そのまま自身に侵入させている状態である。番人のような目が復活するならば、我々を惑わすような、どのようなフォースの侵入をも許さないだろう。もう一度言うが、そのまま、人間は何もかも受け入れている。こうして自動的にすべてと同一化し、考えれば分かることすら分からない状態に自らを据え置いている。
苦しいとか寂しいとか我々は言う。それらは乗り越えることができるものである。精神力では不可能である。努力では不可能である。抑制することでは不可能である。我々が扱う精神力、精神の力というものは、真我に抵抗する間違った力である。霊に反抗する物質の力である。ここにほぼすべての人間が騙されている。これらの力と関わってはならない。これが無抵抗の意味である。普通の人間は、この力を使って努力などを行っている。これを無駄な努力と言う。そのような力と自らを切り離さないといけない。切り離したとき、その静寂ゆえ、高きものが知られるのである。
よく、アリス・ベイリーの本の信者かと言われる。本や、その中身・内容は、全く事実や真理とは関係のないものである。どのような教えも、知識も、真の瞑想者は所有していない。つまり信じていない。まだ概念や観念を扱って把握しようとしている同胞たちに説明するとき、その者が学んできた概念、その者をその学びへ志向させた光線によって、その者の語り方、伝え方、いわば通訳の仕方が変わるだけであり、いかに高尚で偉大な書物であれ、それが想念でとどまる以上、幼稚なものである。ここに気づかないかぎり、永久に我々は存在しないものを見たり信じたりすることになる。
愛する者が死んで悲しいと言う。「それは本当だろうか」と疑う者は、しごく稀である。我々は瞑想で、どんなものをも疑ってきたのである。そのまま受け入れることを拒否してきたのである。すると、在ると思ってきたものは無かった。それが悲哀や苦悩などのアストラル的なものであれ、あるいは物質と呼ばれるものであれ、それはマインドの作用をそのまま受け入れる人にだけ生じる錯覚、イリュージョンであることを理解してきたのである。そのまま受け入れるのではなく、疑い、本当なのかを”見て”きたのである。その結果、いわゆる実在と非実在を識別する生き方をするようになった。それはつまるところ、マインドの統御なのである。その手段が瞑想を通しての魂との融合である。
そして、この瞑想には方法というものはありえない。なぜなら「する」ことがないし、「する人」と関わらないからである。それは、物質的な力・フォースを使用しないという意味である。物質と対極にある霊とかモナドとかブラフマンとか呼ばれるものが発するエネルギーにすべてを委ねることが知恵であり変性であり明け渡しである。したがって放棄とは喜びであり至福を伴うものである。これらは徐々に瞑想で知られるだろう。結果を欲しがる者、求める者は、失敗に次ぐ失敗に耐えられず、諦めて去っていくだろう。それとても一時的なものであり、必ず改心して戻ってくる。瞑想が”何かを求めること”ではなく、ただ識別の結果であるとき、それは良き瞑想になるだろう。真の無私無欲は魂であり、魂との融合の結果であり、エネルギーがフォースを制圧した結果であり、このようにしてのみ、欲深きマインドは克服されるのであり、したがって瞑想とはマインドと魂に関するものなのである。