舞台ゆえ

霊を転生へともたらすものは何らかの種類の形態への欲望である。無欲になったとき、三界はもはやヨギを引き止めることはできない。私たちは、欲望の炉の中で、物と経験と形態生命への切望の炉の中で、自分自身の鎖を鍛造しているのである。

満足感が培われ、満足したとき、徐々にこの鎖は落ち、新たに鎖が作られることもなくなる。私たちが、イリュージョンの世界から自分たちを解放しゆくにつれ、ヴィジョンは明瞭になり、存在の法則が明らかになり……生命がなぜどうして存在するのかが分かるようになる。物質界の存在理由とその方法はもはや問題ではなくなり、ヨギは過去がなぜそのようなものであったかを、……現在の人生周期と経験がなぜこのようなものになったかを理解し、法則を毎日実際に適用できるようになり、未来のために何ができるかをはっきりと知る。このようにして彼は自分自身を解放し、三界では何も求めず、霊的存在の世界における諸条件に自らを再適合させる。

アリス・ベイリー「魂の光 」p.208
最近の記事で、「自己劇化」という言葉が胸に刺さりました。私には確かにその傾向があるようです。物事を感情的に問題化する傾向があります。何が言いたいかと申しますと、問題であるかどうかを決めているのは自分であるということが分かったのです。あなたがいつも「自作自演」と言っていた意味は分かりませんでしたが、ここに来て、ようやく私の認識が追いつき、自身の自己劇化と自作自演という言葉の客観化させる力に驚いています。「私は今、自己劇化している。自作自演を始めようとしている」などと客観的に見れるようになっています。そこで新たな問題が生じました。私には、この自己劇化、この自作自演を止められないという問題です。つまり、ここに気づいた後、私はどうすればよいかが分からないのです。

愛する人が死んだとき、人は悲しみを表現することを欲望する。感情はアストラル的な形態である。「私は悲しむべきだ」と感じ、在りし日の記憶を思い起こしたり、写真やアルバムを見たり、悲しむための素材漁りに勤しむようになる。誰かや何かが死んだことを彼は劇化する欲望に負けているのだが、事実は、悲しもうと決めたのは彼である。通常は、このような分析をする間もなく、悲哀や激情は訪れ、その荒波に飲み込まれる。そのまま自動的に自己劇化や自己憐憫が続き、精神を病んでしまう人もいる。これらは、その人がアストラル界に意識を焦点化している結果の、アストラル形態との同一化、アストラル的な「物と経験と形態生命への切望」であり、自作自演である。例えば映画やドラマはこのような世界を描くことが目的である。つまり、アストラル性質の培養と捕食という需要に応えるものであり、アストラル界の錯覚であるグラマーを蔓延させるための悪の勢力(そのようなものがあるとして)の道具になっている。これらについて、平均的な人間は何も知らず、ただ楽しいから、感動するから、泣けるから、などの理由で、意図的かつ人為的に作られたドラマに感激している。

このような無知にあなたは気づいた。自作や再鍛造の不思議な習慣に気がついた。だからといって、この習慣に対して無力なままであることにも気がつき、形態(この場合はアストラル形態)への欲望にどう対処すべきか分からないでいる。ここまでは合っているだろうか。

はい。

瞑想者が仮に「形態への欲望」を見抜き、対象と同一化させる力に無力であることに気づいたとして、彼は何をするのだろうか。

瞑想者の定義が最初に必要になるだろう。ここではあなたの話であるため、それは低位我を意味している。あなたは低位諸体の一つであるアストラル形態との同一化と、その結果である感情表現を切望している。この意味での瞑想者は、平均的な人間が常にそうであるように、激情に対しては全く無力である。ただし、気づくことはできるだろう。気づくたびに歯止めと「客観化」の効果が生じ、この習慣がやがて冷静さと静けさをもたらし、魂に接触させるだろう。

次に、魂と接触している低位我を「瞑想者」が指す場合は、低位我は何もせず、その融合の度合によって、魂のエネルギーを自身のアストラル界に解放し、感情や情緒や欲求などの感覚性質を彼は意図的かつ知的に無効化するようになる。悲哀や苦悩などの命名は行われず、彼らの焦点はその実質であるフォースに焦点化されており、したがって魂の位置と地位から見るだけで変性されるだろう。

次に、低位我がもはや存在せず、魂になった瞑想者の場合、アストラル界自体が存在していないため、このような問題は生じない。彼らは、次の難題であるメンタル界の自己劇化もまた征服し終えている。

理論的には理解したと思います。私はこれからより意識的に瞑想に専心できるでしょう。しかし実に興味深いのは、まさに、すべてが自作自演であるかもしれないという点です。

したがって、自作つまり形態への欲望と、自演つまり形態経験への切望が輪廻の原因である。霊が物質に束縛され続けている自己責任的な原因である。翻って、束縛から解放されたいならば何が為されねばならないかが理解されるだろう。つまり、物質に対する完全な無欲、それによる自身の霊的な統合である。そしてこの課題を推進するのは魂であり、厳密にはパーソナリティーの意識的な方向づけに助けられた魂である。別の言い方をすると、パーソナリティーは魂の活動を阻害しないよう努めるようになる。これは融合、内なる和合を通して、法則から己を逸脱させぬよう、魂の流れに積極的に受動的になることを意味している。そして、この積極的な受動性を習得させるのが瞑想である。

日常生活で、私は激しい感情を爆発させることがあり、その後、失敗したと感じます。この「失敗した自分」という解釈も、自己劇化や自己憐憫であることを確認しました。ただし、ここでもその次にどういう態度を取るべきか分からずにいます。

問題の核心は、自分を肉体だと思っている点にある。”激しい感情を表現した肉体”が自分であり、責任は肉体である自分にあると思い込んでいる。肉体とは、意識がアストラル界に焦点化されている場合、アストラル的な力にただ条件づけられるだけの自動装置である。この「行為」は、真のあなたと何の関係もない。あなたがより魂になるにつれて、「行為」を魂が統御するようになるだろう。言い換えれば、アストラル的な力など低位の物質の力に動かされるのではなく、そのような力を魂が上から掌握し、変性し、魂の和合のエネルギーが肉体を動かす原因になるだろう。こうして人は無害性を完全に達成するようになる。彼という媒体を通して表現される行為は、法則の観点から見て、知的で善なるものになり、これがあらゆるカルマを相殺し出し、次いで新たなカルマを生み出さないために意図的になり、自身を三界に引き留める素因を自作しないようになり、解放をスムーズに進展させるようになるだろう。

例えば私は怒りやすく、他者を暴力で傷つけたとします。そこでも自己劇化や自己憐憫に陥らないよう努めることはできても、やはり失敗した感覚や申し訳ない気持ち、罪の意識は存在するのです。

その憐憫めいた感覚が、単にアストラル・フォースであることを識別するように。つまり感情に一々騙されないように。罪の意識などと命名せず、その後ろめたい情緒的な感覚、アストラル界のフォース自体をただ見ること、同一化から免れるためにただ客観的に及ぼしてくるアストラル的な力に気づくこと、これを習得すべきである。例えばあなたが短気を起こして人を殴った次の瞬間に、霊的な愛や喜びの意識に入ることすらできるし、実際そうでなければならない。これは常識に囚われている人には理解できないものである。あなたは記憶の継続的な奴隷であってはならない。すべての瞬間に自由でなければならない。他人を殴っても、次の瞬間にあなたは善良で純粋な意識として生まれ変わることができる。これは時間や記憶に縛られていない意識のみがなしうることであり、その意識は自身を肉体でも行為でもないことを知っており、起きた出来事のフォース的な内実を即時に直覚することはあっても、出来事や肉体意識からは切り離されたままであり、観照が損なわれること、メンタル的にもアストラル的にも劇化が始まることを彼は決して許さないだろう。

それは自己中心にはならないのでしょうか。

あなたが自身を肉体と思うときのみ、自己中心に思えるだろう。殴った者と殴られた者に違いはなく、ともに自身である。あなたの意識の中でのみ、そのようなことが起きているのであり、騙されず、本質を見失わないように。意識は観照にとどまらねばならず、劇場や舞台に降りてゆくほど愚かであってはならない。「全てこの世は舞台」であり、「人はみな役者」である。ゆえに輪廻とカルマの鎖に繋がれている。瞑想者は、あらゆる自己劇化から自由であり、舞台にも演劇にも完全に無関心であり、このような冷静さを極めた結果、観照にまでのぼりつめた魂である。

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