メルヘン

年末は自殺者が増えると聞いていましたが、今年はその一人に自分がなりそうです。年を越すこと、明けることが異様に恐ろしく感じられ、可能なら死にたい、死によって不安や苦しみから逃れたいと考えます。長年貢献してきた会社からの裏切り、つまりは左遷、大都市の大手を相手に辣腕を揮ってきたつもりの私が、いまや田舎のスーパー担当、これによる収入の激減、経済的な問題と日々のイライラがつのって仲睦まじい夫婦がいがみ合うようになって熟年離婚、取り残された田舎での全き孤独と持病の悪化。築いてきたものが壊されるために私は生きてきたのでしょうか。鏡を見ると汚らしい56歳。私は精神世界に助けを求めました。あなたのブログは瞑想で苦悩を解決できると言いますが、半年ばかり取り組んできて、何の成果も達成もなく、もう瞑想する気にもなりません。そもそも私には無理だと感じるというのが本音です。ここから助かる方法はありますか。私にはないと感じられます。

私は「ようこそ」と言いたい。もうすぐあなたは苦悩を克服するだろう。こちらにいる誰もが、その程度の苦悩なら経験済みである。したがって経験者は語る。そのような苦悩が我々を真我へ導いたと。そのような悲劇がなければ、我々はまだ幻で遊んでいたであろうと。不幸と幸福を繰り返し迷っていたであろうと。それゆえ、弱き者であっただろうと。夢から醒めるときである。この覚醒へのいざないは、申し訳ないが強制的なものである。あなたは世の幸福に戻りたいが、それはもう許されないだろう。壊れるさだめにある世の幻ではなく、壊されえぬもの、その主が破壊しに来られたのである。耐えがたき不幸は彼の徴である。

それで、この苦しみを取るには……

苦悩とは、世間には知られていないが、より高い段階の喜びへの扉である。これはほとんど完全な描写である。「素晴らしき喜び」という駅があるならば、そこへ向かう列車の名前は「耐えがたき苦痛」である。絶対にこの暗闇を通らねばならないようになっている。だから苦しみを避けないで、その苦しみが何なのか、逃れることが不可能だと知り、直面してもらいたい。途方もないものをその苦痛が教えるだろう。敵だと思っていたものが、とつぜん味方へ変わるだろう。そして苦しむ能力は永遠に失われる。なぜなら、あなたはその全貌を理解するからである。

直面することと、耐えることは違いますか。

最初は耐えることしかできない。我慢と忍耐。そこへ諦念が加わることになる。我々がいかにもがこうが、あがこうが、抵抗しようが、変えようとしようが、不可能である。詐欺師ならば次のように言うだろう。不幸を幸福に変えてさしあげましょうと。これは悪魔的なささやきである。賢者は次のように言う。不幸と幸福は同じものであり、どちらか一方を選ぶことはできないと。これを理解したとき、幸不幸という相反する対をなすものは見破られ、どちらにも振れない冷静さが達成される。結果、魂が知覚されるようになる。

直面することは耐えることではない。耐えなくていいことを人間はもっと知るべきである。はたして苦しみは耐えるべきものなのか。耐えて、耐えて、……しかしやがて、最高度の苦しみがやってくる。このとき、精神的にもはや耐えられないことを我々は知る。つまり、真の絶望、真の諦めが同時に生じるのである。これが完全な無抵抗状態を引き起こす。受容と言い換えてもよいだろう。苦痛や苦悩に対して全く無力であり、私は何もすることができないという観念と悟りが、それそのものを見る能力、直面を与えるのである。こうして苦悩が見られたとき、その正体は、実際は喜びなのである。このとき、あなたは魂の意識を一瞥することになる。

私の苦悩は、まだ序の口だということですか。まだひどい苦悩が浴びせられるのですか。

あなたは苦悩を誤解している。それゆえ恐れている。私はむしろ、世の中の人に、あなたを見習ってほしいくらいである。真に苦しむ能力を持つ者はまことに稀である。それゆえ、最後には、苦しみが自作自演であることを見出さずにはいない。考えてもみてほしい。苦しむことで誰が得するのか。自我である。苦しむあなたの背後で、あなたはそれを喜んでいるか、完全な余裕でそれを見ているのである。ここに気づかねばならない。

それはどういう状態なのですか。私にはひどい苦痛、死にたいほどの苦悩しか感じられないのです。このままでは狂ってしまう可能性があります。この状態を、別の私は喜んだり余裕で見たりしていると言うのですか。

別の私ではなくあなたである。ここは肝心なところだからよく考えるべき箇所である。あなたは完全に余裕である。苦しいと言っているあなたは嘘つきである。つまり、あえて苦しみたいのだろう、と私は言っているのである。苦しいではなく、苦しみたいのだろう。それは苦悩への欲望である。言い換えれば、アストラル的つまり情緒的な形態との同一化の欲望である。苦悩という経験を欲しているのである。娘に先立たれた質問者と同じ自己劇化である。誰が劇化するのか。自分である。この虚構、自分の中で発案され、練られ、演出され、開演され、また自ら演じられるという自我の仕組みを理解できますか。これは壮大な嘘である。

そこまで考えはしませんでしたが、正直なところ、思い当たらないわけではないと感じる何かがあります。

その感覚を辿ってほしい。平安に導かれるだろう。その次に、「待てよ、私はこんなに不幸なのに、平安でいて良いのだろうか」という質問が来るだろう。このようなマインドの罠に騙されないように。平安でいてよいに決まっているではないか。最初から平安だったことをあなたは知る。すると、今までの物語は何だったのか。全部、自作自演である。マインドのイリュージョンが次々に解かれるとき、自分であれ世界であれ何であれ、すべての虚構性、つまりただの想念であるという事実に気づくだろう。簡単なこと、このシンプルな事実をねじ曲げようとするマインド、難しいものに仕立て上げようとする己にもはや騙されぬあなたであってもらいたい。これは今すぐにでも習得可能なものである。ただし、あなたが欲望している物語は終わってしまうが。

私が欲望している物語とは何ですか。

あなたという物語である。

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