なぜ「私」に集中するのか

なぜ聖者たちは「私」に集中するよう説くのでしょうか。また、それが「明け渡し」と同じであると説くのでしょうか。
  1. まず根本的な事実を述べる。それは、すべてはエネルギーであるというものである。そして、我々が転生してくるこの三界は、低位の質料で構成されている。この質料は活動するエネルギーであるが、純粋なエネルギーではない。上に従っているものではなく、下に従っているエネルギーである。霊ではなく物質に従うエネルギーである。後者のエネルギーは、原初の純粋さから分離して、別のものに条件づけられているため、我々はエネルギーとは呼ばず、フォースと呼んでいる。したがって、我々の世界、そして我々自体(つまり人間)は、フォースで構成されている。
  2. 次の根本的な事実を述べる。それは、フォースはエネルギーに変性されうるというものである。全ての人間は第三イニシエーションを受けるまでは(あなたの言う聖者とはこのイニシエーションを受けた者を指すのだが)、フォースをエネルギーに変性することだけが目標である。言い換えれば、人間内のすべての不純物を取り除き、純粋なエネルギーに還るまで、輪廻や経験といった現象を通して霊は物質の質料に働きかけ続ける。
  3. 最後の根本的な事実を述べる。それは、エネルギーは思考に従い、目はエネルギーを方向づけるというものである。見習いの道の終盤から、人はエネルギーを知的に方向づける単なる機能になることを学ぶ。自身が人間であるという思考は放棄され、自身という単位はエネルギーをフォースに方向づけ、焦点化し、集中させる知的な経路体であるとみなされるようになる。こうして、進歩した人間は、フォースをエネルギーに変性させる意味と意義を学習し、それを実行するための聖なる中間体になる。

ここであなたの質問に戻る。なぜ「私」に集中するよう聖者は説くのか。もはや答えは簡単である。「私」とはただのフォースだからである。我々が「私」に焦点を向け直すとき、すべての錯覚の根本であるマインドというフォース体にエネルギーはさし向けられる。この集中が続いたとき、貫通が起こり、すなわち絶えず形態を纏おうとするマインドの動き、低位メンタル界のフォースはエネルギーに従うようになり、波長の一致が生じ、このとき遮るものは何もないため、意識は新しい意識へと拡大され、すべてはエネルギーであるという状態へ還るのである。人間を構成していたすべてのフォースは、自由で純粋なエネルギーへと明け渡されるのである。

「私」がフォースという意味が分かりません。

メンタル体にエネルギーが条件づけられるとき、それはもはや純粋なエネルギーではなく、メンタル体に色づけられたフォースへと堕落する。それは制御されておらず、その者のメンタル体つまりマインドの奴隷になった無知なエネルギーである。そしてこのとき、「その者」自体がマインドでしかなく、エネルギーはマインドに拘束されるだけになる。この結果が人間の意識である。

分かりません。例えば、「私は誰か」という真我探求を我々が行うとき、あなたの説明では何が起こっているのでしょうか。

初心者はエネルギーとフォースを識別できないため、エネルギーがフォースに働きかけることはなく、フォースがフォースに働きかけ、この結果として葛藤や苦しみが生じるだけである。これは魂とマインドの瞑想ではなく、マインドと脳の瞑想であり、脳の損傷を引き起こすだけの危険なものである。彼つまり個人意識は、まだ自分が行為の主体であると錯覚していることが問題である。これはすべて、純粋なエネルギーと純粋さから離脱したフォースを識別できないことに由来している。だからあなたが何年も「私は誰か」とやっても、それはお経程度に無意味である。誰も分からないことをできない。あなたが魂と接触し、エネルギーの二次的な媒介である魂からエネルギーを受け取るようになり、フォースを統御するのはエネルギーのみであることを知ったとき、あなたは初心者を脱し、知った上で高位の行為を助ける道具でしかなくなる。「秘教徒は常にフォースを扱うという言葉は初心者でも知っている」と書物は言うが、我々はまだ自分がフォースであることには気づいていない。この最後の文章はあなたを含め、あらゆる分離した個人意識を自己とみなしている意識に当てはまるものである。

では、「私は誰か」が正しく行われているときは、どういうことが起こっているのでしょうか。

エネルギーが、知的に啓明された媒体(低位質料が大いに除去された媒体)を通るとき、低位質料のフォースに騙されるという現象は起きず、つまりそれまではフォースが引力であったが、今度はエネルギーが引力に変わり、フォースが逆にエネルギーに従うようになる。これが、外ではなく内に方向転換するという意味であり、「私は誰か」が意図するものである。このとき弟子は、内も外もないことを悟る。マインドを介したときだけ区分けは生じる。エネルギーつまり霊や生命と呼ばれるもの自体にはいかなる分割もありえない。

ますます混乱しています。

それはあなたがあなたに執着しているためである。瞑想であなたが魂と結ばれるようになったとき、魂であるあなたは、魂である自身に新しく執着し始めるだろう。言い換えると、それまでのあなたには興味も関心もなくなるだろう。これが明け渡しである。よってどのような混乱も平和に席を譲ることになる。だから魂をまず目指すべきである。私が話したような基礎的な内容は、魂が教えてくれることである。

では、どうやって魂を目指せばいいと言うのでしょうか。

そのような思考、それが伴わせる情緒、これらをすべてフォースとして見抜かねばならない。あなたは低位具体マインドに支配されているため、何事も具体的に、つまり概念で把握しようとする悪習がある。具体化する前のものを扱わねばならない。結果ではなく原因を扱うのである。

初心者は、最も粗いフォース、簡単に知覚(あるいは触覚)できるアストラル・フォースから必ず開始する。例えば感情。瞑想中に何らかの想念が感情という力(フォース)であなたを巻き込もうとするとき、それを、怒りとか葛藤とか命名せずに、影響力を持つフォースとして、その力自体を見なければならない。見るときは、眉間のセンターを通して見る必要がある。見たところにエネルギーは流れ、あなたが純粋な「見る者」であるならば、フォースは瞬時にエネルギーに変性される。だから、これまであなたが怒りとか悲しみとか命名してきたどのフォースにもこれは適用でき、そのような力はあなたに対して騙す能力を失い、アストラル界は制圧される。その後、メンタル界に安全に挑めるようになるだろう。ラマナ・マハルシなどの話はこの段階の者にヒントを与えるものだが、読み手のほぼ全員がアストラル体を統御していない。よって間違った理解が蔓延しているのである。それは求める話であり、欲求的な、つまりアストラル的な解釈へと堕落している。真我は欲求の先にはない。まず欲求体・感覚体であるアストラル体からはじめ、アストラル的なフォースに影響を受けるのではなく、影響を与える側に回るべきである。このとき、あなたは魂に到達しているだろう。

あなたの話は難解です。

実際は簡単なものを言葉や文章にしたとき、難解になるのである。あなたは瞑想できる。この瞑想自体が、難解になる前の単純な知恵を授けるのである。もう少し辛抱して瞑想するならば、何年後かに、このような話すら分からなかった時期があったことに驚くだろう。そして、今のあなたのような意識を体験することはできなくなる。だから、本の研究よりも、第一に瞑想を信じてもらいたい。これが真の自信である。あなたの自信のなさは、間違ったものへの強調が原因であることを知り、強調点を瞑想へと移行し切る必要がある。理論より瞑想である。具体より抽象である。結果より原因である。自我意識より魂である。

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