- 聖者の病気についてどう思われますか。調べてみると、多くの聖者が最終的には癌などで亡くなっているようです。もしくは死因が隠されています。こういう現実を直視するとき、彼らが偽物だったのではないかという疑念がわきます。本物の聖者であれば、病気になることもないでしょうし、なったとしても治療できると思います。例えばキリストは何でも簡単に癒やしました。そこまでではないとしても、日本では松下松蔵なども簡単に人の病気を治しています。
睡眠中ですら世界は知覚されていない。肉体ではなく、コーザル体と同一化したときの意識では、天上的な至福により、肉体の不調和の感覚はすべて上書きされ飲み込まれる。この整列意識へ入った瞑想者の態度は、病気でも構わないというものである。たとえて言えば、世の中でも敵とみなされる人物は私に攻撃を加えてくるかもしれないが、敵と和解し親友になるならば、かつての敵は攻撃ではなく私に良いことをするようになるだろう。これと同じで、高位の意識においては、我々は病気を敵とはみなさない。治療すべきという思考の背景には、基本的には恐怖や敵対や無知がある。コーザル意識つまり魂意識においては、分離はないため、病気と病気を患う私という二元はないのである。すべて私である。ここは重要な応用できる箇所であるため決まり文句だと思わないでもらいたい。我々は、敵対するとき敵を作るのである。病気であれば、病気に敵対するとき病気を促進させ、病気を自身と全く切り離して考えないとき、つまり一体にして同一のものであるとき、そこには何の諍いもないのである。よって至福しか存在せず、病気という幻は存在していないのである。
- 現象的には存在し続けるはずです。実際、ニサルガダッタ・マハラジは、喉の癌に苦しみ、「耐え難い痛み」だとたびたび表現しています。
意識が病気を知覚し、それを言葉で表現するからといって、必ずしも知覚されたものから影響を受けるわけではない。これは苦悩や悲哀などでも同じことである。以下の引用はヒントになるかもしれない。
パーソナリティーの深い悲嘆と不幸の直中にあっても、魂の喜びを知り感じることができる。これは秘教のパラドクスであり、決まり文句である。しかしながら、それは事実である。学ぶ者はこれを目指さなければならない。
アリス・ベイリー「ホワイトマジック下」 p.68病気や苦悩はパーソナリティーと関係している。意識の焦点が魂にあるとき、彼は静かな平和のうちに喜びとすべの美しさ・素晴らしさを知る。このとき、二元に堕落して、何かを嫌ったり、敵対したり、どうにかしてやろうという恣意性はありえない。
- あなたは、「意識の焦点が絶えず魂にあるときに、完全な健康がもたらされることになる」という文章を以前に引用しています。これを達成しているはずの聖者がなぜ病気になるのでしょうか。
カルマが考慮されねばならない。形態はカルマの支配下にある。人間の三重の形態がすべて原子亜界の物質でのみ構成されるようになったとき、つまり光体であるとき、カルマに支配されることも、病気になることもない。このようなイニシエート――第五段階以下のイニシエートと物質界で会ったことがあるため、憶測からではなく言うことができる。彼に対して、三界のどのような力も影響を与えることはできなかった。見た目は普通の人間だが、超人だった。
- このような質問をするのも、私が病気で苦しんでいるからです。それは幸い、死に直結する病ではありませんが、とても辛く苦しいものです。そして、医療機関がいかに無力であるか、不親切であるか、金権腐敗した精神であるかを見てきました。だから私の一縷の望みは瞑想なのです。
例えば、「苦しい」「きつい」「辛い」などの言葉を絶え間なく言う人がいる。このとき何が起きているのだろうか。そのように言うことで、そのような現象を強化しているのである。ここに一人でも多くの仲間たちが気づきますように。もし彼らが「私と私の病気」とか「私と私の苦しみ」などと分離して考えず、また敵対的に考えることもないならば――もっと言えば彼が愛そのものであるゆえすべてが受容と抱擁の対象でしかないならば、病気も私もなく、真我のみが知られるだろう。その至福と愛に包まれているとき、あらゆる不調和は治療の対象ではなく、融合の対象でしかない。融合を引き起こすエネルギーは我々の言語では愛と呼ばれているものである。それは一般的な意味での愛ではなく、魂の愛である。これにより一体化と融合は引き起こされ、和解と平和が生まれ、病気の不快の知覚は打ち消される。ただし、これは病気の力より、融合の力が上回ったときだけ有効な話である。
- 私は自身の病の苦しみを知覚しています。どういう態度が賢明でしょうか。
そのような質問自体が、病気への嫌悪感、病気を追放したいという気持ち、病気から逃れたいという切望を含蓄している。我々は肉体ではない。感覚知覚でも、それに影響を受ける者でもない。魂との接触、それに続く融合、これによって意識は「高所」に沈潜しそれを喜ぶ。その結果、強調点は不具合や不快感ではなく、魂の美しさ素晴らしさ喜ばしさに移行される。そのときのみ、「私は病気でも健康でもどちらでも構わない」という形態や知覚に対する聖なる無関心が達成される。だから、あまり病気のことを考えないことが第一に重要であり、意識と思考の焦点を、徐々に感覚知覚から魂へと移行しなければならないのである。その手段が瞑想である。しかし病気から逃れたいから瞑想するのであれば、それは瞑想にはならないだろう。ここをよく考えて、切望や逃避のために瞑想を利用するのではなく、真実のために瞑想しなければならない。病気を超越させるのは内なる知恵である。
- 私は痛み止めを飲んでいます。病気で鬱々としており、抗不安薬も併用しています。こういう状態で瞑想は可能でしょうか。
可能である。現代医学が作り出した物質つまり薬は、しばしばその有毒性より効能の方が重視されて然るべき状況がある。そのとき、薬は助けになるだろう。あなたが魂として強くなったとき、薬はいらなくなるだろう。なぜなら、あなたは二元を融合で乗り越えるからである。だから決して敵対してはならない。それが人間であれ、家族であれ敵であれ、そして病気であれ。知覚しているものと自身が同一のものであるという知恵に我々は至るときである。そのとき、何の争いがありうるだろうか。このような知恵が調和を我々に教え、光と平和をもたらすのである。
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