切迫感というグラマー

「マインドを超えてゆくこと」や「マインドの彼方」、これらを聖者方は強調して伝えますが、私には瞑想でどうすればよいのか、どう在ればよいのか、これについて何年も分からないままでいます。

それは分からなくてよい話である。多くの人が逆に考えている。事実は、超えた後、超えたことが理解されるのである。超える前、それについては何も分からないし、分からなくていい。超越を期待してはならない。

私は切実に真我を求めています。残りの人生は短く、切迫感をもって瞑想しています。「求めよ、さらば与えられん」と聖典は伝えます。

切迫感は障害になるだけである。あなたにはどのような引き起こす力も、コントロール能力もない。あなたは存在すらしていない。あなたというマインドの影、この幻の意見を聞いたり、付き合ったりするだけ無駄である。あなたはそれらとは何の関係もない実在である。この実在は、あなたのいかなる努力とも関係せずにすでに存在している。それは求められる類いのものではない。

聖典は求めることが重要だと言います。また覚者は、真剣さだけが重要だと教えています。

誰が求めるのか、あるいは誰の真剣さなのか。真我の対義語で言えば、それらは偽我の欲求であり、偽我の真剣さである。偽我のこうした騒動が、真我という静けさを乱し、かき消していることに気づかねばならない。あなたがいま自分と思っているのは偽我である。想念である。記憶であり時間の産物つまり過去である。マインドに騙されていることに気づき、どのようなものとも関係を断ってほしい。でなければ、自身が作り上げた想念形態に憑依され続けるだけである。

私は偽我ですし、その偽我の意識ですが、どうやっていま自分であるものと関係を断つことができるでしょうか。あなたはどうやったのでしょうか。

関係を断つ力がひとりでに現れ、その高位の力があなたの意識を引き上げるのである。だから真我つまりエネルギーと、偽我つまりフォースをただ識別し、エネルギーの大海に我と我が身を委ねただけである。したがって、何もしていない。「する」と「在る」の違いの啓示が訪れねばならない。したがって次のように言えるだろう。エネルギーとフォース、法則と反法則、霊と物質を識別させる啓示が最初に訪れねばならないと。これは、第一イニシエーションと第二イニシエーションの間に起こるだろう。よって、あなたのような人にとって難易度の高いものではない。ただし、最初の啓示は霊ではなく魂になるだろう。

そこには、識別する者と識別されるもの、啓示を受ける者と啓示、という二元があるのではないでしょうか。

最初はある。なぜなら認識するのはマインドだからである。しかしすぐに二は一に融合するようになるだろう。なぜなら、さらなる高みへ影を落とす悪を照らし出すのは魂の光だからである。あなたが魂と自身を同一化するにつれ、あなたは急速に知的になる。このようにしてあなたを急かしているアストラル界のフォースは克服され、あなたは急がなくなる。急ぐ必要性から自由になる。なぜなら、すでに至福であることが知られるからである。あなたは愛に包まれる。そして平和を知る。このとき、あなたはどのようなカルマも生み出さない。そして輪廻の鎖の秘密を法則の中で知ることになる。よって第二イニシエーション以降は二回とか三回とかの転生で済むと言われるのである。

しかし、もし私が求めないなら、つまり悠長にしていて何もしないなら、絶対に前進はありえないはずです。

どこからどこへ前進するのだろうか。あなたの目的地とは、あなたの想像物である。よって、そのような領域はあなたの想念以外のどこにも存在していない。非実在を知的に見分ける能力が必要である。想念や想像はあなたをどこへも導かない。私は悠長や怠惰を推奨しているわけではないし、同じぐらい努力や真剣さを推奨しているわけでもない。魂を見出し、エネルギーとフォース、神性の霊的側面と物質的側面の力の違いを識別するようお願いしているのである。

では、どういうときに「関係を断つ力」がひとりでに現れるのでしょうか。

そのような力を求めないぐらい我々が成熟したときである。瞑想には、いかなる霊的欲望も持ち込んではならない。これが分かっているぐらいに成熟しているときである。普通の人の瞑想は、欲望瞑想ないしはアストラル瞑想でしかなく、そのような低位のフォースに条件づけられている無知の行為である。よって、葛藤や苦痛を伴うものであり、常に何かを求める衝動に駆られている瞑想であり、AではなくBという架空への瞑想、それは決して”ただAで在る”という存在性の啓示が訪れることのない瞑想である。答えはAにある。Aとは私である。

ならば、聖者の方々が言われる通り、「私は在る」に注目したり、「私は誰か」と問うたりする瞑想が正しい方向へ導くと考えてよいのでしょうか。

なぜ方向があるという考えに固執するのだろうか。どのような方向もないかもしれないのである。方向という考え方は、もちろん想念であり、マインドの解釈である。この解釈と関わりを断ってほしい。どのような想念が浮かぼうとも、眉間の上部でそれを一に返してほしい。あるいは無に返してほしい。

いかなる方法も、訓練も、死物である。マインドは常に生き、動き、その類まれなる狡猾さで我々を煙に巻こうとするものである。その瞬間瞬間のものに対処しうるのは、方法や訓練を行うあなたではなく、あなたが静かなときにのみ現れうる高位我であり、魂である。マインドを統御し、マインドを超越させるのは、魂であり、最終的にはそれ以上のものの力、霊的意志である。

あなたは、焦ったりしなかったのでしょうか。私には時間がないのです。

私の関心はあなたの恐怖を取り除くことである。霊的進歩はあなたのコントロール下にない。あなたは焦っていると言い、見出す前に死が訪れることを恐れているが、この焦りとは何だろうか。ただのアストラル・フォースである。いちいち、異なる感覚に命名していく必要はない。単にどれもフォースである。しかし、我々はエネルギー自体であるため、あるいは唯一なる生命自体であるため、そのような錯覚を簡単に飲み込むことが本来はできるのである。真の我々に対して、低位のフォースは触れることも近づくこともできない。それは存在の波動、振動率が違いすぎるからである。どのようなものも真の私の中では至福に変わる。なぜなら、結局のところ、すべては私だからである。

繰り返すようですが、私の寿命は長くないのです。この生涯で見出したいのです。この考えすら障害だというのならば、どうすることもできません。

障害というより、逃避である。そのような恐れや切望は、真我から遠ざけるための、自我による自我のための策略である。負けてはならない。時間によって獲得されるという推測がそもそも自我の計略である。騙されてはならない。あなたは、いまあなたである。そのあなたとは、あなたが考えるあなたではない。想念によらずしてあなたであるとき、徐々に虚構は剥がれ落ちてゆくものである。あなたにとっては魂の冷静さが鍵である。

はかない個人の生涯に執着してはならない。あなたは間違った自身に対する執着心を試されている。個人の望みなど、どうでもいいではないか。気にする必要はない。あなたという個人に関係なく、真のあなたはいま実在中である。世界という映像の移り変わり、感覚や知覚の変遷、つまり脳の連続的な反応を根拠に組み立てられる時間という概念に執着してはならない。この意味が分かるだろうか。

あなたの意識からすれば、「時間がかかる」と言うべきかもしれないが、時間という想念に束縛されていては、到底真理は見出されないだろう。なぜ私が時間の先、未来のものでありうるだろうか。しかしあなたは時間意識である。この場合、融合させる内的メカニズムが発達するまでは少しばかり「時間がかかる」。しかし、あなたが高位我を見出し融合したとき、それは全く時間ではありえないのである。この手の話は文章にするだけ難解になり、要点を見失わせる。あなたが知るべきことは、あなたが静かであるとき、またあなたが何も待望しないとき、深き瞑想が訪れ、あなたのいかなる想像も近づけなかった偉大なる力が訪れうるということである。しかし、あなたは求めるという病いに冒されている。見出す者とは、そのようなアストラル衝動を克服している者である。アストラル界を克服させるのは魂の知恵である。だからまず魂が知られねばならない。よってオカルトの格言は、「道を辿る前に道そのものにならなければならない」と教えるのである。

私の段階で見出すでしょうか。

見出すような人しかこのような文章を読まない。通常は意味も分からないし、興味を抱かないし、瞑想を続けさせる力すら訪れない。あなたには訪れている。それが確たる証拠である。ただし、恐れないことが大事である。あなたは幻を恐れている。それは無視してよいものである。無欲に静かに瞑想を続け、ただおのれで在り、瞑想が教えることを学び、瞑想の素晴らしさにますます喜びを覚えるようになるならば、徐々に高所の意識に入れるようになる。自分、つまり高位我を信じてほしい。その偉大なる存在は常に常にあなたを導こうとしており、あなたの方から去らぬかぎり、必ず見出させる力を行使しに現れるものである。

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