どれほど厳しい人生に見えるとしても、正しい瞑想に導かれた生涯は、極めて稀で幸運なカルマがもたらしたものであるに違いない。しかし、「霊的に目から鱗が落ちる」瞬間まで、未来はあえて隠されるべきものであり、この見方に同意するのは難しいかもしれない。同様に、隠された過去が明らかにされるとき、なぜ自分がこのような人生を歩むことになったのかを我々は深く理解するだろう。そして瞑想できる環境や、霊的なアイディアに反応できる諸体を纏って生まれてきたことに感謝するだろう。
現在、世界中で尋常ならざる過酷な生を送っている多くの兄弟姉妹たちを我々は直接助けることができない。たとえ賢く健康で貧しくもなく、あと一歩で霊的な道に入れるような心穏やかで優しい人たちであっても、霊的な話が通じることはほとんどない。つまり本質的に助けられない。しかし、ひとたび正しい瞑想に導かれた者は、たとえならず者であっても、ほどなくして聖者になる。
「私はどん底にいます」と瞑想を始めたばかりの人々は感じるかもしれない。しかし、正しく生きることを決意し、自身を含めて誰に認められるでもなく、日陰者のような日常に歯を食いしばりつつ、おのれに厳しく向かい合い、朝に夕に、暗闇のなかで目を瞑る者たちの未来は明るい。彼らの涙はやがて、個我の焼尽と霊的な王国の顕現、それに続く高次の喜びと至福に置き換えられるだろう。これはちょうど、ローマの焼失、人々の阿鼻叫喚、それを宮殿の高台から弦を奏でつつ目で楽しんだネロ、この悪の作り話の高位の相応である。瞑想する者たちは物質的にではなく霊的に安全になる。恐れていたものから自由になる。世界の問題の本質を洞察し、同胞の苦しみに対する感受性を途方もなく増大させるであろうが、法則の中から働くため、感情に巻き込まれることも思想に色づけられることもなく、神と調和したまま兄弟に仕えることが可能になるだろう。
我々は時として、瞑想ができることや真理を探求する時間を持てることへの感謝、ありがたみを忘れがちである。どれだけの生涯で積み重ねた善行の結果であるかを忘れがちである。休息は訓練と同じぐらい重要だが、生活において娯楽が多すぎるかもしれない。人類の叫び声の彼岸にて、独り善がりの自己満足が入り込んでいるかもしれない。無駄口が多いかもしれず、また神と調和することのない想念を野放しにしている時間が多いかもしれない。これらの自覚はあっても、言い訳に逃げているという自覚も同時にあるかもしれない。周囲に流されてはならない。また自我に流されてはならない。物質ではなく、物質に宿る神にのみ、魂は仕えねばならない。