在るの影はする1

瞑想における真剣さとは何なのか。日常の一瞬一瞬に浸透する、瞑想的な生き方における真剣さとはどのようなものなのか。それは決して「頑張る」ことではない。努力や精神力と呼ばれる硬直した力みでもない。それらは、個我という小舟が掻き立てる波風に過ぎない。それは行為であり、行為とはすなわち、動機や目的に縛られたあてもない旅路だ。今ここに在る地点を否定し、遠い遠い岸へと無理やり渡ろうとするあがきであり、それは「存在そのもの」に対する抗いの影を孕んでいる。

瞑想がもたらす最も深遠な啓示、それは「I AM」である。この「I AM」は、「私はそれである(I AM THAT)」という、魂が自らを見出しその存在に触れようとする段階を超越するものである。秘教的に言えば、「I AM」は臨在、すなわち純粋なる至高霊であり、「I AM THAT」は臨在の天使、すなわち魂と結びつくものである。最終的には「THAT」が「I AM」を啓示し、イニシエートは「I AM THAT I AM」という究極の調和を成し遂げるのだ。

真我とは、単なる存在ではない。それは、あらゆる形態や現象の背後にある、原因なき原因としての実在そのものを指している。しかし我々が肉体を自分と錯覚するとき、この”存在性”に抗う行為が生じる。あるいは、行為の主体としての自我を自分と見なしてしまうのだ。ゆえに、世間一般が「真剣さ」と呼ぶものは、多くの場合行為であり、その行為の中に宿る努力や力みに過ぎない。それは存在から遠ざかる運動であり、存在とはすなわち法則そのものを指すがゆえ、法則から外れたとき、我々はカルマという影を生み出してしまうのである。

瞑想とは、「在る」という純粋な真実への深遠なる関わりであるべきだ。しかし、我々の多くが実践する瞑想は、何かを「する」という行為の檻へと荒み変じている。それは真剣さを誤解した姿であり、神、すなわち「I AM」という聖なる臨在を否定する試みでもある。この「する」という行為は、実のところ「させられている」という隠された真実を持つことに我々はいつ気づくであろうか。

我々が自らを肉体と見なすとき、その肉体を動かしている力とは何であろうか。それはアストラル界とメンタル界からの衝撃、つまり欲望や感情、感覚の波、さらには思考や心理が生み出す決定の力だ。肉体そのものはただの媒体であり、それ自体で動くことはなく、つまり原理ではない。肉体は他のエネルギーに動かされるための器、静かなキャンバスでしかない。人間の場合、この肉体というキャンバスは、アストラル体やメンタル体という目に見えぬ七人の画家の筆に操られた自動装置のようなものだ。これらが、いわゆる「する」に属するものなのだ。

しかし、外界から押し寄せるフォースの波が魂のエネルギーに従い、調和の和音を自ら打ち鳴らす瞬間が訪れるとき、その整列は「在る」という存在性の啓示をもたらす。「在る」とは、あらゆる抵抗を越えた自由の息吹であり、存在そのものが放つ純粋な光だ。それは夜闇を貫く一筋の星明かりのように、私たちを深遠なる存在の真理――「I AM」へと導く。

それは、自らを肉体という殻に閉じ込める幻想を壊し、外界の喧騒や内なる葛藤という闇を打ち払い、真の自由の領域へと踏み出すことを意味する。あるいは瞑想は、魂の静謐な湖面に波風を立てることなく、ただその澄んだ水鏡を見つめる魂の行為なのだ。ゆえに、真剣さとは、「在る」と「する」の間に横たわる微細な境界を見極める鋭い識別力を要求するものである。それは、我と我が身を流れるエネルギーとフォースの性質を見抜き、それを融和させるための刻々の眼差しであり、荒々しいフォースを精妙なるエネルギーへと変容させる神聖な錬金術である。聖者たちはこれを指して「明け渡し」と呼んだ。この過程は、決して行為そのものの否定ではなく、行為者という影の否定であり、背後の光を啓示するものである。

目次