アンターカラナの暗夜

瞑想とは何か
それは何かを得るための手段だろうか。もし個人の視座に立つならば、瞑想は魂と個人とを結びつけ、普遍的な生命という大海に意識を溶け込ませる神聖なる航路であり、また道でもあるだろう。しかしながら、その舟が目指す港が幻影にすぎぬならば、それはただ波間を揺蕩う漂流に終わる。

瞑想を始める者が、魂との一体化を希求する際、その魂という抽象観念は多くの場合、他者の語りや文献的権威に依存する断片的理解の集合体に過ぎない。これらはまるで朝霧に包まれた遠景のように、その輪郭はぼんやりと霞むばかりである。我々が直面しているのは、魂そのものではなく、自らの構築した観念的幻影に過ぎないのではないか。この追求が果たして瞑想たり得るのか。そもそも魂とは、目標として追求されるべきものなのか。

我々はこう考える。魂はすでに存在しているが、人間はそれを知覚する器官を初めから持たないと。
インド哲学の語彙を借用するならば、瞑想とは個人と魂とを結ぶ架け橋――すなわち「アンターカラナ」を築く営みである。この光の道は、大河にかかる虹のごとく、時空の隔たりを超え、霊的暗黒の海に迷い込んだ者を新たなる啓示の地平へと導く超越的経路である。結果、三界における実践的な奉仕の力、すなわち神の意図を顕現しうる魔術的能力が我々の内に宿る。しかし、この視点において瞑想とは、アンターカラナを構築する過程の一部門に過ぎない。

霊と物質の関係が魂を生じさせた。
人間は物質の力と同一化することで、分離した自我意識という牢獄に囚われている。この牢獄を打ち壊さんとする者が、個人的な欲望やアストラル的衝動に突き動かされて道を求めるならば、その意識は必然的に三界――物質界、アストラル界、そしてメンタル界――の迷妄の網に絡め取られるだけであろう。瞑想とは、こうした幻影を払う破邪顕正の曙光であり、その光の中でのみ真実が啓示される。しかし、この光に到達するためには、あらゆる意図や動機、たとえそれが霊的と見なされるものであろうとも、完全に放棄しなければならない。

瞑想はアンターカラナを構築するための手段なのか。
答えは二重である。マインドの限定的視点からは肯定しうるが、瞑想そのものとしての純粋性を基準とするならば否定せざるを得ない。なぜなら、個人的な行為や霊的欲望に動機づけられた力は、霊的本質が志向する上昇力とは不可避的に衝突し、真の瞑想状態を妨げるからである。この逆説的な論理を我々は深く熟考すべきである。生命そのものが高位の行為であるのに対し、瞑想に持ち込まれる動機は低位の行為に過ぎない。我々は、この生命に生かされているのだ。そしてその生命と、生命を生きる個々の存在との間には、本質的に分離などあり得ない。ただ生命のみが在る。我々は生命である。

瞑想の行方
瞑想の果てにて真実を問うとき、世俗における瞑想の実践は、往々にして自我の行為性に囚われている。だが、それは初学者にとっては必要な入口かもしれない。彼らは物質的な幸福を追い求め、その結果として不幸を刈り取る。そして外的富と内的充足の調和を試みるが、霊の崇高な力を物質的利益のために利用することは、言うなれば悪魔的行為であり、神(エネルギー)を悪(フォース)に従わせるもの、計画通りではない誤用である。それは自らの破滅を招くだけである。我々はこのような段階を脱しているはずである。ゆえに、瞑想は行為ではなく、むしろ行為の放棄でなければならない。行為する者としての自我を超え、その背後に潜む聖なる無関心――ただの観照者として退き、存在そのものの神聖さを敬うべきなのだ。「する」ではなく「在る」ことが重要となる。そして、意識が「在る」ことへと完全に焦点化されたとき、すべての行為は静止し、瞑想は啓示の泉と化す。しかし、我々はまだ「する」ことの領域を超えていない。アンターカラナが完成され、真に「在る」ということの深遠さに目を見開くとき、我々は自らがすでに普遍的な生命の一部であることを悟るだろう。その瞬間、内なる解放の光が満ち、かつて私であったものは灰となり、行為も欲望も、そしてその主も静かに消え去る。結局のところ、ただ生命が「在る」のみなのだ。


「瞑想は手段なのか」という問いは分かりますが、その答えが曖昧というか、矛盾しているように感じられます。瞑想が「手段」であると述べる部分と、「行為の放棄」であると強調する部分が、文脈上で食い違ってはいませんか。たとえば、アンターカラナの構築という具体的なプロセスを示唆する一方で、「する」ことを超えた「在る」ことの重要性を説くのは文脈的には疑問がつきまといます。

最初は手段である。アンターカラナが構築されたとき、我々は容易に魂と融合でき、そのとき我々は魂であるゆえ、行為の放棄は必然かつ自然なものとなる。エネルギーとフォースという秘教的な語彙について、全く分からないという批判を頂いている。そこで、「する」と「在る」という別の平易な同義語で説明しようと試みている。最初は瞑想を「する」だろう。これはフォースと関係している。正しい瞑想生活によってアンターカラナが構築されたあと、我々は「在る」だろう。これはエネルギーと関係している。行為という概念そのものが実際は二元的なものである。

では、アンターカラナの構築が瞑想の重要な段階であることは分かりましたが、そのプロセスや実践方法については書かれていません。例えば、どのような瞑想の形式や日々の瞑想生活つまり心の態度がアンターカラナの構築に寄与するのか、もう少し具体例を挙げることは可能でしょうか?

アンターカラナは二段階に分かれる。ここでは、前半つまり個人と魂の連結について書いている。すべての人間があらゆる意味で異なるため、この問題を一言で言い表すのは不可能だが、アストラル体の統御の進展とともに魂が認識されるようになるため、この点を最初に強調したい。しかし、どのようにしてアストラル体を統御するのか、とあなたは次に問うかもしれない。魂のエネルギーによってと答えるしかないが、次は、私はまだ魂を知らないと言うだろう。こうして無限に議論は続いてしまう。このような基礎的な知識を持ったあとは、ただ瞑想し、瞑想の中で自ら答えを見つけるよりほかにないのである。したがって、このような文章はヒントにとどまるだけだろう。アンターカラナ以前の暗夜は誰もが暗闇の中を一人で進む。しかし、瞑想するならば助けは必然であるため、瞑想そのものを信じねばならない。

では、瞑想が「する」から「在る」へと移行するとき、その境界線はどのように認識されるのでしょうか? この変化は明確な意識的な出来事を伴うものなのでしょうか。

明確な意識的な変化を伴うものである。

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