もし私が、ある程度の達成に至ったと認められる瞑想者を導くとするならば、まず多くの習慣を断固として禁じるだろう。書物を読むことは一切禁止とする。己で考える力を放棄し、他者の言説や権威が築き上げた虚構の世界に縛られる者には、真実への道は永久に閉ざされている。この観点から言えば、信仰、崇拝、敬仰、憧憬、尊敬、などといった行為や感覚そのものが、真我からの明白な逃避の表れである。
さらに、あらゆるものを概念化し、命名しようとする行為もまた厳禁とする。ただし、三界の中で他者とコミュニケーションを取る必要がある際には、言葉や概念を使用せざるをえないが、それ以外の場面では言語の使用を一切禁じる。つまり、従来通りの低位マインドへの依存を排し、絶えず考えている状態をなくし、その束縛を超越する術を学ばせる。
加えて、何かを信じるという行為を完全に禁じる。その代わりとして、徹底した疑念を奨励する。だが、ここで言う「疑う」とは、思考によるものではない。思考そのものを厳格に排除し、思考を超えた内なる視覚のみを許容する。だが、その内的な視覚の後に、何かを解釈しようとする行為もまた禁じられる。言い換えれば、高位マインドから低位マインドへ、あるいはその逆へと無為に上下を繰り返し、エネルギーを浪費することは、断固として避けなければならない。
もし、このような規律と意図の意味が理解できる者がいるならば、その者には自身が築き上げた幻想の世界を打ち破る可能性が期待できる。その者自身によって、真我への門が開かれる瞬間が訪れるのである。
- あなたが禁じる「書物」や「概念化」は、瞑想者が所有する過去の知見や他者の経験から来る教えを活用することを完全に否定するものでしょうか? もしそうなら、知識の累積をどのように評価しますか?
完全に否定するものである。想念の領域に固執するかぎり霊的な知見に関しては埒外にある。知識の累積はマインドの娯楽であり、そのようなものの追求は、いくら霊的に博学であっても、むしろ霊的に怠惰な印しである。
- では、「徹底的な疑念」を奨励しながらも「思考の排除」を求めているようですが、疑念とは思考を伴わずにどのようにして存在可能なのでしょうか?
良い質問だ。疑念は初め、思考によって生じるものである。すなわち、それは低位マインドの作用として発現する。しかし、その疑念に内的な視覚の焦点を合わせるとき、すなわちその疑念を深い集中の対象とすることで(これを瞑想と呼んでもよいだろう)、その集中力が虚構を剥ぎ取る作用を果たすのだ。視覚が虚構を貫き、見られる対象と見ている主体が瞬時に融和する瞬間、理解は自然とその状態に内包されるものである。
ここでの「思考の排除」とは、疑念を生じさせた初期段階の低位マインド的な作用――絶え間なく思考するという性質を超え、それを純粋な観照へと昇華させるプロセスを指している。この結果、疑念そのものが知覚の新たな扉を開く触媒となるのだ。
- 「信仰」や「敬仰」を真我への障害と断じていますが、それらの行為が自己超越の契機となる場合もあるのではないでしょうか? それを一律に否定する根拠は何ですか?
可能性はある。古の神秘家たち(特に第六光線の弟子たち)は、この道筋に沿って進化を遂げてきた歴史がある。それはアストラル界からブッディ界、さらにモナドへと至る道である。ただし、この道は低次のものであり、その進展はほとんど偶然に委ねられているように見える。なぜなら、それは知性を伴わない道だからである。
一方で、我々が推奨するのはマインドの超越という道である。これは物質界からメンタル界、そこからアートマ界、そしてモナドへと至る道であり、現代の探求者に特に適している。なぜなら、現代人のマインドは既に高度に発達しているが、その発達こそが新たな障害を生み出しているからだ。ゆえに、発達した知性をさらに高次の知性に置き換えることが、より効果的で実践的な道となりうるのである。
- 「高位マインド」と「低位マインド」という二分法が示唆されていますが、それは全ての人間に普遍的に適用可能だと考えていますか? そうであるなら、その根拠を教えてください。
普遍的に適用可能である。その根拠が私自身の瞑想に基づくものであると言っても、驚くべきことではない。なぜなら、「私自身」とは同時に「あなた」をも指しているからだ。瞑想が導く源の意識は、この世で「あなた」や「私」と認識されるすべての現象を包括する唯一なる原因である。「あなたの意識」や「私の意識」があるのではなく、一つの意識の中に「あなた」や「私」があるのだ。
また、高位マインドと低位マインドという二分法は、説明を容易にするために用いられる概念に過ぎない。しかし、本質的にはこれらの区別は各人が瞑想を通じて直観的に解明すべきものなのだ。これらの概念は、言葉の枠組みの中で考えるほど複雑ではなく、瞑想における直接的な知覚によって自然と理解される性質を持つ。これらを理屈として理解したならば、その次に必要なのは、各々が瞑想という実践を通じてその真偽を確かめることである。