見習いの弟子と浄化のプロセス

秘教的な道において、「見習いの弟子」と呼ばれる期間がある。それは魂を見出す前の期間と、自らの波動を魂の波動と一致させ、接触の障害にならないよう低位三諸体を精製する期間に分けることができる。この期間を象徴する言葉は「浄化」であり、それは霊的成長を志す者にとって極めて重要な局面である。

この時期、従来の自己認識や価値観が根底から揺さぶられ、次々と試練が個人へもたらされる。多くの人々はこれを「悲惨なまでの苦痛」として体験するが、それは一時的なものであり、やがて魂との融合が確立されることで決定的な転機を迎える。つまり苦悩を超越できるようになる。これは不可逆的なものであり、その後は苦痛を感じることの方が難しくなる。

読者の多くがこの段階に悩み苦しんでいる。しかし、私は彼らがもうすぐこの段階を乗り越えることを知っている。なぜなら、経験してきているからである。対話において、誰がどの段階にあり、どのような過程と啓示が必要であり、あとどのくらいで法則が超越を許すかをおおよそ計ることができる。したがって、この期間における暗黒を詳細に示し、その意義を明らかにするとともに、それが希望につながらんことを切に祈るものである。


目次

1. 浄化のプロセスとカルマの清算

見習いの弟子は、過去生において蓄積されたカルマ的な負債を精算する段階に入る。これを知らない者は多く、それゆえ彼らは言う。「なぜ自分だけがこれほど」と。そういうものである。周囲にはこのような経験をしている友を見つけることはできない。したがって誰とも精神的に馬が合わなくなり、しばしば孤独が苦痛であると共に拠り所にもなる。この時期には、過去の行為の結果が速度を増して浮上し、精神的・感情的・肉体的な困難として顕現する。

  • 肉体の試練:これは厳密には、新しいエネルギーの流入によるエーテル的な試練である。それは魂とパーソナリティーの試練ではなく、高位エーテルと低位エーテルの間の試練である。ここは一般にはあまり知られていないが、「進化におけるエーテル体と病の試練」で詳細を書いたように、必然的かつ重要な試練である。この時期、弟子はしばしば病気や体力の低下、極度の疲労感に苛まれる。
  • 情緒体の試練:アストラル的つまりカーマ・マナス的な不安定さが増し、過去の執着や欲望が浮上する。善への意志も活性化されるが、悪意の残滓も同じく活性化され、自身の修正されるべき悪の側面を急速に認識するようになる。このとき、しばしば罪悪感や自己嫌悪、そして自信喪失が弟子の意識を特徴づけることになる。
  • メンタルの試練:価値観や常識、信念体系の変化を余儀なくされ、長年の思考習慣が瓦解する。考え方が変わるということは、別人になるということである。よって、周囲の考え方には同調できなくなり、周囲からも同調されなくなる。ここに初心者は苦しむが、後にどうでもよくなり、最後にはすべてを愛するようになる。なぜなら、彼の意識領域が愛になるからである。

2. 孤独感と社会的な疎外感

メンタル体の試練で述べた通り、見習いの弟子は、従来の交友関係や社会の価値観との間に深い隔たりを感じるようになる。秘教的にこれは、魂の光が増し、啓明され、必然的に世俗的な考え方や欲望が薄れていくためである。

  • 世間一般の価値観が虚飾に満ちたものに感じられる。と同時に、それらや、それらを信じる人たちから孤立したことを知り、深いパーソナリティー的な虚無感に襲われる。
  • 友人や家族との関係が変化し、彼らとの間に理解の壁が生じる。最初、弟子は彼らに「理解してもらおう」と考える。そして痛い目に遭う。次に、「理解してもらうこと」を諦める。こうして孤独を感じる。
  • 霊的探求の道を歩む者としての自覚が強まるが、それを共有できる相手がいないことを悟る。最初、見習いの弟子は仲間を求める。そして、似たような価値観を持つコミュニティに保護を求めたり、外的な師を渡り歩いたりする。しかし、真の理解は誰からも得られぬことを知り、すべてが馬鹿馬鹿しく感じられ、結局は一人であり、一人立ちしなければならず、またこのような暗夜は、たった一人で模索し乗り越えられねばならないということを教訓として学ぶ。これが激しい懊悩を個人にもたらす。

このような孤独や苦悩は永続するものではなく、次の段階へと進むための準備期間として捉えるべきである。見習いの弟子は、外部への依存から解放されねばならず、内なる指導者である魂とのつながりを深める意味と意義を学ぶのである。これがやがて融合をもたらし、存在の世界を理解させるのである。


3. 霊的憧れと失望の間での葛藤

この時期には、強烈に霊的成長に対する憧れと熱誠が増す夢見る期間と、それが容易には実現しないという現実との間での葛藤が生じる無力感と無能感を痛感させられる激痛の時期である。このようにして、弟子は自身が行為者であり、力を持つ者であるという錯覚や驕りから徐々に解放されるのである。言い換えれば、より高次の力に明け渡す必要性を理解し始めるのである。よってこれも必要な浄化のプロセスとみなされる。

  • いくら書物を学び、師に学び、瞑想をしても「進歩がみられない」「何も感じられない」という焦燥感。これは自分だけなのではないかという疑念に苛まれる。自分は低い段階の者に違いなく、到底到達不可能な道を夢見てしまったのではないかと考え出す。彼は、誰もがこの時期を通ることをまだ知らない。自分だけだと思っている。よって、到達した人への霊的嫉妬に苦しむようになる。
  • 高い理想と自身の不完全さの間で生じる自己批判、そして自己憐憫。私はダメな人間に違いないというカーマ・マナス的な誘惑に逃げたくなる衝動。しかしながら、逃げても自己破壊につながるだけであることも理解するため、彼はより緩やかに道を歩むこと、リラックスすること、休息や余暇が道には必要であるということを学ぶ。こうしてバランスを取るようになる。
  • 霊的な達成の歓喜を求めるが、たとえそれに似た体験をしたとしても、一時的であり、再び試練の現実に引き戻される。そして再び体験したいと願うが、以前より意識と波動は悪化し、すべてが去ったことを理解する。彼は干満の法則つまり周期の法則を学ぶ必要がある。進歩は螺旋状にしか進まず、見た目上の前進と後退を繰り返すことを認識しなければならない。最後には、それらを超えた領域、外界に影響を受けない霊的な魂の地場に安住する術を体得する。それゆえ、パーソナリティーの深い悲嘆の中にあっても、魂の喜びによって不幸をかき消すことが可能になるのである。

この段階において求められるのは、霊的な体験ではなく、諦念と忍耐である。そしてバランス感覚である。真の霊的成長は、派手なヴィジョンや感覚ではなく、静かな内的確信の中にある。


4. 師との接触の希薄さ

多くの見習いの弟子は、「師との接触がない」「導かれている感覚がない」と感じる。しかし、これは意図的なものであり、師の指導が期待するような明確な形で現れることはない。

  • 見習いの弟子には、自己の内なる魂の声を聴く訓練が課せられる。これは声なき声であり、イルミネーションであり、魂的な理解する能力である。彼は自らの質問を自らで答えられるという経験を積む必要がある。それは考えずに答えを知る能力であり、やがては魂のコーザル界を経由してブッディ界の直観に至る必要がある。それは徐々にできるようになる。
  • 依存を防ぐため、外的な指導は最小限に抑えられねばならない。自らを鍛えるにあたり、書物や外的な師はいずれ障害になる。そのような領域に真理はない。
  • 霊的な直観を養うために、自らの識別力を磨く機会が与えられる。これは具体マインドの使用によるものではなく、魂的な直観によるものでなければならない。つまり、考えずに分かるようになる必要がある。

導きがないように感じられるのは、内なる唯一の師が「見習いの弟子の自主性」を尊重しているためであり、霊的な一人立ちと自己確立のための試練でしかない。


5. サイキック現象への関心の抑制

見習いの弟子の多くは、シッディ的な能力の開花を期待するが、これは慎重に抑制される。なぜなら、サイキック能力はアストラル界に関連し、錯覚と自己破壊をもたらすためである。

  • 真の霊的直観は、サイキック能力とは異なる。前者は必要不可欠だが、後者は必ずしも必要ではない。後者は奉仕のために必要であれば訓練することが第三イニシエーション以降に許可される類いのものである。それ以前にはどのような超感覚的能力も発達させるべきではない。
  • 低次の霊的体験に執着すると、進歩が妨げられる。憑依現象はしばしばこの典型である。劣等感や不幸の感覚から欲望瞑想を行う個人は、その低次の波動によって、よからぬアストラル界の第七亜界や第六亜界に存在する悪意ある「心霊」たちを引き寄せるのである。このような憑依は、24時間常に、ではない場合が多く、イニシエートによる慎重な見極めが必要になるが、そのような段階の者を見つけることは困難であるため、このような状況に陥る前に、性格や精神の純粋さ、浄化が必要なのである。

6. 苦悩の一時性とその超越

見習いの弟子の試練は、耐えられないレベルの苦悩をしばしば伴うものの、これは一時的なものである。ジュワル・クール覚者は、「苦悩は最も一時的なものであり、最も過酷なものではない」と述べている。

  • この苦悩は魂との分離意識から生じる。それは個我意識である。したがって、第二イニシエーションを迎える前に、エネルギーとフォースの性質が理解されねばならないのである。
  • 魂との融合が進むにつれ、苦悩は減少し、静かな確信と喜びに取って代わられる。それは「する」から「在る」への移行であり、完全な自己充足の理解をもたらすものである。
  • 第二イニシエーションに至ると、情緒体の浄化が完了し、個人的な苦悩はほぼなくなると言ってもよいだろう。仮に苦悩が生じても、彼はアストラル・フォースに対処する術を知っている。

見習いの弟子にとって最も重要なのは、この苦悩が「永続するものではない」という理解である。試練の向こうには、魂との融合という真の光が待っている。


結論

以上を読めば分かるが、見習いの弟子の期間とは、恐ろしいまでに、試練と苦悩に満ちたものである。それは、耐えることが無理だと思うレベルであることを強調したい。

しかし、「ひとたび第二イニシエーションを受けると、その進歩は速まり、第三と第四イニシエーションはおそらく同じ生涯、あるいは連続した生涯で達成されることになる(「イニシエーション」p.123)」と言われるように、この期間が個人として最も最悪の期間であり、ここを過ぎればあとの重荷ははっきりと軽減されることを覚えておくべきである。なぜなら、真の行為者が彼に降臨するからである。これがキリストの再臨であることを知らねばならない。外的にも教師は定期的に現れるだろうが、そのような方々が教えるのは、常に内なるキリストについてでしかない。

よって、瞑想できる生涯に感謝しようではないか。そこを耐えきったあと、すべてが報われ、どのような幸運よりも幸運であったこと、どのような恵まれた人よりも恵まれていたこと、つまり神性の稀なばかりの慈悲というものを知り、ずっと導いてくれていたこと、それに気づけなかっただけであったこと、これらに納得し、そのとき、賛美歌の意味を知らずにはいないだろう。なぜなら、すべてがそこからは美しいのだから。一瞬前まで闇しか見えなかった者が、光しか見なくなるのである。このすべてを魂は賛美せざるをえない。けっして神は離れてなどいなかった。これを知るとき、放蕩息子は父の懐に抱かれて泣くのである。

目次