この数日、朗読の動画をいくつかあげてもらった。興味深いことに、「思考と思考の間」についてマハラジもマハルシも語っている箇所があった。クリシュナムルティも著書で同じようなことを語っている。
- マハラジ:思考と思考の間を見なさい。
- マハルシ:純粋な「私」は、二つの想念の合間に体験される。
- クリシュナムルティ:思考と思考の間にそれは在る。
これを理解することで、”合間なるもの”と融合することができる。しかし、”合間なるもの”とは、見ることで捉えられるものではない。我々はすでに「それ」である。 だが、理解しようとし、見ようとする瞬間、”合間なるもの”は霧のように消え去る。探求の個人的意図が、探し求める対象を覆い隠すのだ。”合間なるもの”は、行為の先にはなく、存在そのものである。「する」ことではなく、「在る」ことの純粋な状態である。それは純粋意識であり、”ブッディ-魂”である。その知覚は、「I AM THAT」という自己認識の光である。しかし、それをさらに遡るならば、そこには形を持たぬ純粋なエネルギー、「I AM」の波動が広がっている。それは、沈黙が奏でる見えざる旋律、言葉の狭間に潜む無言の真理である。
学び始めた頃、クリシュナムルティの「思考と思考の間にそれは在る」という言葉が胸に刺さった。しかし、私はそれを見つけようとしたのだ。ゆえに理解できなかった。思索の域を出ず、意図と動機に絡め取られて、真理は網目をくぐって砂のように零れ落ちた。
マハルシは言う。自我は、思考と思考を渡り歩く尺取虫のようなものであり、形態から形態へと絶えず移りゆくことで養分を得ると。自我意識を希薄化させるためには、この無意識の歩みを止めねばならない。一つの想念から別の想念へと移行し続けるマインドの自動作用、それが鎮まらねばならない。完全に消滅する必要はない。ただ、その騒々しい思考の連鎖が、”合間なるもの”の霊的作用によって制され、その啓示が開かれねばならないのだ。啓示と直観は似た性質を持つ。知ることと、その状態に入ることは、同時に起こる。
“合間なるもの”の認識に至る方法はない。理論は存在する。あらゆる至ろうとさせる想念や欲求と関わる必要がないと感じられるぐらい、諸体が浄化され、魂がその光をパーソナリティーに十分浸透させたとき、探し求める意図すら消え去り、ただ在るものが残る。魂を認識させるのは魂である。瞑想の静謐の中で、魂の意図は明確となる。だが、それは意図的な探求の結果ではなく、魂が魂自身の波長と一致することによって、自然と理解されるものなのだ。
“合間なるもの”に融合したとき、我々はそれを観ることができる。魂が、魂自体を観照するようになるのである。これが、「私は誰か」や「私は在る」といった問いの高みで起こることである。真の自己が自己自身に意識を焦点化するとき、この静寂の集中が三界のあらゆる錯覚を超え、マインドを乗り越えさせる。この「自己集中」は甘美であり、ひとたびこの意識を知るや、人間はそれ以下の意識に苦痛を覚えるようになる。想念が生じ、想念形態と同一化する瞬間、エネルギーはフォースの道具となる。我々が、いかに霊的な動きとは逆向きの流れに絡め取られていたかが、そこで明らかとなるであろう。
しかし、本来、すべてのフォースは、高位のエネルギーに従わねばならない。思考が生じた瞬間に、意識はエネルギーへと引き戻され、フォース意識はエネルギー意識へと変容する。そのとき、尺取虫の動きは止まる。その合間に、「人知を超えた平和」が顕れる。
かくして、瞑想者は、思考と思考の合間に広がる純粋な意識の住人となる。それは愛あふれる喜びである。そこはブッディの波動領域に位置するゆえ、サマーディーと呼びうるものであり、彼は融合したことを知る。しかし、その領域は純粋な「在る」であるため、そこに至ろうとする者も、知覚者と知覚されるものも、もはや存在しない。その意識を可能ならしめたもの、つまりエネルギー自体が行為者であり、存在であり、意志そのものである。これを知るとき、魂はエネルギーという普遍的真我の啓示へと至る。
この意識を得た者は、やがて理解する。
「第三イニシエーションの後、イニシエートは意識には全く関わらず、自らの個人の意志と神聖な意志との融合に関与するようになる」(『光線とイニシエーション』p.55)という言葉の真の意味を。
自我は魂を知る。そして、愛と喜びと平和を知る。しかし、それは最終地点ではない。この意識が達成されたあと、神の目的が彼を捉えるようになる。それは霊的意志——アートマの力強いエネルギーが担うものだ。モナドはこの力を通して働く。したがって、次なる時代の啓示は、神性の第一様相である。現代の人々が神をその第二様相――「愛」として認識するように、次の時代では神は「意志」として認識されるのは必然である。
ゆえに、人間の目的は悟りにあらず。人間の真の目的とは、自身の目的が神の目的であることを知り、神自体と融合し、道具を完全なる通路とすることにある。このようにして、人間は顕現する神の目的となる。
三界は結果の世界であり、エネルギーとフォースという原因の世界における魂の活動は、やがて二元の分離を超え、唯一なるエネルギー自体、意志自体である存在の世界へ移行するようになる。それは、純粋意識の以前のもの、すなわち惑星意識である。