瞑想できる環境の希少性

魂を認識し、錯覚を払い、一体化と融合の境地へと至るまで、自己探求者の世界は暗く、苦しく、辛いものである。ゆえに、そのような暗夜にあって、今日も瞑想はままならず、心は重く、進むべき道も霞む。瞑想などやめてしまおうか。私に到達できるはずもない。そんな嘆きが、夜の静寂にこだましている。しかし、近視眼に陥ってはならない。

誰も一朝一夕に稀なる意識に入れるわけではない。そこへ至るには、時を要する。忍耐が試され、自己感情の放棄を含めた無数の諦めをも受け容れねばならない。日々、一歩一歩、見た目には前進と後退を繰り返しながら、誰もが内なる魂のかすかな光を頼りに、躓き、出血の痛みに耐えながら、孤独に歩みを進める。

瞑想できる環境が、いかに稀であるかを考えたことがあるだろうか。正しき教えに導かれ、外的な権威に惑わされることなく、己が魂との接触と融合を求め、内なる真我を探求するために、日々学び、日々瞑想できるというこの環境、その希少性を真に見つめたことがあるだろうか。

私はかつて、瞑想部屋に入り瞑想を行う前、そして瞑想を終えた後、必ずその場にお辞儀をした。「今日も瞑想させていただきありがとうございます」。この心からの感謝の気持ちが、自然にお辞儀として表れ、瞑想できる環境への感謝を常に感じ、忘れることはなかった。

成果を求めて瞑想するならば、心は貧しくなる。瞑想は続きにくい。瞑想できる環境に恵まれながら、貴重な時間を個人的な娯楽に費やすことは、あまりにも惜しい。静けさの中に真の平和を求め、内なる導き手の恩寵に浴し、深く深く己へと闖入することができる——この稀なる環境を、今一度、真摯に見つめ直したい。

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瞑想できる環境の稀少性を数値で考える

世界には約80億の人間がいる。そのうち、いかに多くの人が瞑想を行うどころか、その機会すら持ちえないかを考えれば、瞑想のための時間と環境があること自体が、そもそも極めて貴重な恩恵であることがわかる。以下に、瞑想者の平均的な環境を例に挙げ、瞑想できる環境の希少性を見ていく。

  1. 日本のような豊かな国に生まれる確率
    世界銀行の定義によれば、高所得国(GNIが一人当たり約13,000ドル以上)に属する人口は、世界の約15%に過ぎない。日本のような国に生まれ、生活基盤が整っていることは、それだけで恵まれたことである。
  2. 教育に恵まれる確率
    ここは無視できる項目かもしれないが、一般的には学習に多少の知性を要する。大学レベルの教育を受ける機会のある人は、ユネスコによると約7%しかいない。学ぶ機会を得られずに、一生を終えていく93%の人々がいることになる。読み書きができない人口は約7億人(約9%)で、高等教育を受けられ、かつ霊的な教えに反応できる者はさらに少なく、7% × 10%(霊的な教えに共鳴する人の割合として仮定)= 0.7%。
  3. 形骸化した信仰ではなく、外的権威に依存せず、内的覚醒を促す教えに出会う確率
    世界のほとんどの人々は伝統的な宗教の中で生きている(キリスト教33%、イスラム教25%、ヒンドゥー教15%、仏教7%)。しかし、魂との接触や融合を本質とする実際的で瞑想的な教えを知り、そのアイディアに反応できる諸体を持って生まれ、学び続ける機会を得る人は、間違いなく1%以下であろう。
  4. 衣食住のために働き詰めにならず、余暇を持てる確率
    世界の多くの人々は生活のために長時間労働を余儀なくされている。OECDによると、週40時間以上の労働を要する人は世界人口の約65%である。仮に最低限の生活が保証されていても、余暇を持ち、自己探求の時間を十分に確保できる人は、多く見積もっても25%程度である。
  5. 健康な身体を持ち、瞑想できる体調である確率
    不健康による身体的な制約がある人は多い。WHOによると、慢性疾患や障害を持つ人口は世界の約30-40%である。多少なりとも健康な状態で瞑想できる人の割合は50%以下とするのが適切だろう。
  6. 心が安定し、瞑想に反応できる精神状態である確率
    精神疾患やひどいストレスを抱える現代人の特徴だけ考えてみても(世界の精神疾患有病率は約20-30%)、瞑想に適した精神状態を維持できる人は最大でも40%ほどであろう。
  7. 瞑想の習慣を持ち、それを継続している確率
    これはアメリカのデータだが、瞑想を試したことのある人は増えているが、実際に日々瞑想を続けている人は0.5%程度に過ぎないと言われている。日本も大して変わらないだろう。
  8. 瞑想に適した社会的環境にいる確率
    戦争(世界の約20%の地域では戦争・内戦が続いている)や独裁政権(35%)、極端な貧困、犯罪率の高さなどを考慮すると、瞑想に適した社会環境にいる人は多くても50%程度である。

瞑想と感謝の境地

瞑想の道は険しく、魂の光に至るまでの旅は、深い闇と孤独に満ちている。思うように進まず、己が無力に打ちひしがれ、あるいは瞑想の意義すら見失う時もあるだろう。しかし、ふと立ち止まり、今いる自身の環境の稀少性を思い返すような我々でありたい。

この機会は、偶然に訪れたものではない。長い転生の果てに、積み重ねられたカルマの結実として、我々は今、この恵まれた場に立つ。深遠なる叡智に触れ、正しき導きを受け、静寂の中に己を沈めることが許されている。これほどの恩寵を、ただの不満と愚痴によって曇らせることが、世界の恵まれぬ兄弟姉妹たちに対し、失礼であり、無責任であると感じる。幾千万の魂たちが、どれほど望んでもこの道に至ることのできぬ現実の中で彷徨っている。この事実を忘れ、自身の環境を当たり前のものと錯覚するならば、それは驕りであり、瞑想の精髄を損なう分厚い障壁となるであろう。

世には、感謝をすれば報酬が返ると説く、低次の教えが溢れている。しかし、我々は個人の報酬を拒絶する者である。魂に至るとき、そもそも自己が全ての魂の一部であり、生命の一表現として、最初から報酬そのものであったことを悟るだろう。瞑想生活とは報酬どころか放棄の生活である。個人的な幸不幸に執着せず、快苦に振り回されることなく、ただ魂の真理に焦点を当てる道である。我々は、良いことが起きても、それを「良い」とは思わず、悪いことが起きても、それを「悪い」とは思わなくなるだろう。出来事に左右される生ではなく、出来事を超越した存在そのものへと歩む者となる。

自己探求とは、己が何者であるかを知ることであり、それは個人による個人のための探求ではない。すべての背後に遍在する一なる生命そのものへの道である。この道を歩むことが許されていること、その環境にいること、そしてそれを可能とする意識と意志を持ちあわせていること、この事実を真に思索するならば、感謝の念は必然である。

そして感謝は、単なる情動ではなく、我々を引き上げる高き波動である。それは決してアストラル的な感傷的感謝ではなく、魂そのものの純粋な謙虚さから発するものである。この感謝は、順境の日にも、逆境の日にも、等しく存在し続けるに違いない。それは、飢えた探求者の糧であり、魂の進化を促す霊的な磁力なのである。だからこそ、我々は問わねばならない。何を得るために瞑想するのか。何を成し遂げるために座るのか。そうではない。瞑想ができること、それ自体が恩寵なのだ。これを理解する時、どうして感謝なくして生きることがありうるだろうか。その理解と感謝こそが、結局のところ、我々に真剣さを与え、日々の瞑想に豊かさを加え、よって魂への扉を開き、個人を超えた存在へと通じるあの瞬間へと導くのである。

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