雑念を消そうとか、初心者は偽物に焦点を合わせる傾向にある。闇と太陽つまり光子の物理関係に見られるように、本物だけが、偽物を追い散らすことができるという自然界の力関係を忘れているのである。力あるものが、より力なきものを淘汰するというのが自然界の秩序や序列における法則である。生態系では、より適応したものが生き残り、環境に適応できないものは消えゆく宿命にあるが、これは単なる弱肉強食ではなく、進化の法則として働くものである。
思考は自然界では弱者であり、影幻であり、偽物である。ゆえに、思考と思考の間隙に見られる本物への焦点化が、瞑想や集中における本質論なのである。それは目に見えるいずれのものも、空間を土台としているにも関わらず、人間は空間という実質ではなく、その上の虚構に焦点を合わせようとすることで、空間という最初の実体が何であるのかという啓示に永久に至らないのと同じことである。空間は全く「空」ではない。それは生命あるいはエネルギーとよばれるもので、いわば埋め尽くされている。これらは純粋に焦点とそれに付随する内的で直観的な視覚の問題でしかない。
別の例を挙げよう。私はこれを書くまで二時間ばかり寝ていた。肉体は睡眠を要求していたが、魂や、魂を通して顕現する意志が、睡眠という霊的怠惰を許さず、いくら個人が寝ていたいと思っても、瞑想による没入意志には太刀打ちもならず、意志が無理矢理その日の意志を始めるのである。そして意志の要求を瞑想が直観し、肉の媒体はそれを物質界に顕現させるために動き始める。
このように、個我意志という偽物は、より高位の意志によって無視されるのである。純粋な意識という観点からすると、この一連のプロセスにおいて、その意識は、ただ現象や顕現へと向かう純粋意志の働きや力学、その起きていく事とは直接的には関係していない。つまり、出来事や世界については、気づいてさえいない。それは睡眠よりも休息しており、人間の目覚めよりも遥かに鋭敏で意識的であるにも関わらず。
働くもの、動かすものは、エネルギーである。しかしエネルギーは、意志と直観(その特質は愛である)と知性という霊的な三位つまりトライアドを通して働く。個我ではない意識、あるいは意識以前のもの、すなわち自由なエネルギーである真我は、この顕現へと向かう一連のフォースの現象的力学作用の過程の埒外にある。それは物質とその背後の空間のようなものである。物質は個的であり非個的にして非分離的な空間なくして現象的ではあり得ないが、空間自体はいかなる現象なくして自立自存している。これは、自由なエネルギーと、目的とエネルギーが混ぜ合わされたフォースの違いを示している。
融合が教えるのは、自由なエネルギーであり、それ以外のエネルギーは、いかに高位(その意識が身を置く界層から高位)であっても、フォースに属するというものである。融合は純粋で自由なエネルギーと関係し、すべての現象や顕現の本質は神と呼ばれる真の高位我に由来している。よって、神以前の完全な無形にまで真我は遡る。こればかりは、それ以上遡ることのできないもの、原因のない原因であり、真の本物にして、一切のもの、神でさえも超越した神秘なる生命の本質である。この意味において、神は真我のパーソナリティー的側面であり、意志と目的の混ぜ合わされた「純粋なフォース体」であり、しかし真の根源は、神や惑星ロゴスよりも以前のもの、唯一なる超越である。言い換えると、神は私に由来している。