水と生命の循環
水は人体の六割を占め、人間と細胞(生命と生命たち)の生命活動を支えている。人類はいまだ個我の時代であるが、部分はあくまで全体の一部であり、構成要素でしかないという全体像の知見に至りつつある。水が血液を浄化し、粘度を調整し、老廃物を除去することで、スムーズな血流と健康な循環を維持するように、個と個が全体の健康のための純粋なエネルギーの媒体、流入と流出の知恵ある経路として在るべく意義に気づきつつあり、よって多くの探求者が自身の浄化の必要性に反応しつつある。
水は単なる物理的な物質ではなく、統合の力を持つ。水は極性を持つ分子だが、さまざまな物質を溶かし、移動させることで体内のバランスを維持している。化学者は、水が親水性と疎水性の物質を仲介し、物質同士の結びつきを促進すると言うが、これは統合や調和といった水の特質をよく示すものである。キリスト教の洗礼は、本来、自己の浄化とそれに続く統合という水の象徴的かつ秘教的なアイディアを含むものである。現代において、水のアイディアは、人類に第二イニシエーションの準備を整えさせるものであり、じじつ、水瓶座からそのようなエネルギーが我々を後押ししているのである。
近代天文学の基礎を築いたケプラーは、惑星の運動法則を発見する過程において、「宇宙には幾何学的な調和があり、それが天体の運動と人間の世界に影響を与える」ことを理解した。現在、地球は水瓶座(アクエリアス)の時代に移行しつつあると言われるが、これは歳差運動(地球の回転軸の揺らぎ)によって、春分点が魚座から水瓶座へ移行する現象を指すものである。これをケプラー的に言い換えると、惑星がある配置に達すると、次の周期に向けた新しいリズム――彼は宇宙の音楽と言ったが――をエネルギー的に賦課し始めることを意味している。この新しい時代のエネルギーの特質は、水の浄化と、それに続く統合と調和である。
パーソナリティーの浄化に続く魂との統合
水の働きは身体の浄化に留まらず、感情や思考といった精神の領域にも及ぶ。たとえば知性は、鋭敏であるほど分析力を持ち、他者の欠点を見抜く力を強めるが、それは分離の視座を生み、批判の力を強める。たとえば批判の言葉が口をつく瞬間、精神は激しく硬直し、内部に緊張が走る。それはまるで、心の奥深くに棘が突き刺さるような感覚である。批判を発した直後、言葉そのものが鋭利な刃となり、自らの精神を切り裂くのだ。この感覚を知る者にとって、もはや批判することは、自らの存在を苦しみの中へ投げ込む行為でしかない。
そして人は学ぶ。批判することと、傷つくことが同義であると。こうして害するくらいなら害されることを選ぶようになり、傷つけるよりも無害であることを望むようになるかもしれないが、最後には「害する」という概念そのものが意味をなさなくなる。こうして彼は抵抗を手放し、流れに身を任せることを学ぶ。批判が意味を失う代わりに、欠点の背後にあるもの――自分自身の中に最も根深くあるもの――を理解するようになる。
自分が最も軽蔑し恐れているものが、自分の中に最も強く存在しており、それにもかかわらず、そうであることをまだ認識していないという発見。彼はまた、軽蔑し恐れている意識領域を探求し、知るようにならなければならず、その結果、そのような領域がやがて、避けるべきものではなく、価値あるものになることを発見する。彼は何も恐れなくなる。
アリス・ベイリー「新時代の弟子道2」p.63
魂の水が流れ込むとき、それは硬直したものを解きほぐし、執着を溶かし、対立を融和へと導く。水が乾いた大地を潤し、石灰質の沈殿を溶かして流すように、魂の水は分離の壁を崩し、人を柔らかくする。そして、その水を飲み干した者は、人の欠点の奥にある恐れや痛みを見て、それを理解し、同情する心を持つようになる。こうして忘我が生まれ、批判は愛へと変容する。かつて分離のために使われた目は、今や統合のために開かれ、直観は機能し始める。魂の水が流れる場所では、批判はもはや必要なくなり、すべてのものがひとつの流れの中に溶けていく。そして、人はついに、一なる魂そのものとなる。
瞑想と魂の水の流入
統合のプロセスを加速する最も効果的な方法の一つが瞑想である。瞑想は、魂の水を流し込み、パーソナリティーを浄化し、意識の進化を促す手段となる。水が汚れを洗い流すように、瞑想は心の堆積物を除去し、あらゆる記憶や既知から解き放ち、未来と過去をともに現在へと引き戻し、魂の純粋な流れ、「I AM」を乾いたパーソナリティーに注ぎ込む。
浄化とは単なる除去ではない。水が川の流れを作りながら、その周囲の大地を滑らかにし、形作っていくように、魂の水はパーソナリティーを洗い清めながら、新たな形を生み出す。高位亜界――すなわち第三亜界以上の精妙な物質が諸体に組み込まれ始めると、魂のエネルギーは頭部のセンターから流入し、意識は次の段階へと向かう。
瞑想の深まりとともに、この流れは加速し、人はさまざまなより高位のエネルギーの伝導体となる。水が熱を受けて蒸発し、雲となり、雨となって地に還るように、意識もまた、自らを通る純粋なエネルギーの中で昇華され、計画に沿った神性の意志を生み出す媒体へと変容する。ここで、人はもはや個として存在しているのではなく、魂の水を通して宇宙の流れの一部となり、生命の大いなるリズムとひとつに溶け合う。
このとき、浄化とはもはや「不純を取り除くこと」ではなく、魂が本来の自らを思い出す過程であると理解される。これがアートマ・ヴィチャーラであり、魂の純粋性に魂として直面することによる自己の完全なる開示である。瞑想とは、自己がすでに清らかであることを思い出し、分離の幻想が溶け去る至高の瞬間である。
直観を含んだ魂の水は、マインドの幻を「洗い流し」、あるいは「追い散らし」、本来の純粋性を悟らせる。瞑想の中で、魂の水がパーソナリティーを完全に浸し、抵抗がもはや存在しなくなったとき、人は流れそのものとなる。そこでは、分離も、浄化も、変容も、もはや概念ではなく、ただひとつのものが、絶え間なく流れている。
宇宙を奏でる音なき意志
かつてケプラーが語ったように、宇宙は「音楽(調和)」を持ち、それは水の流れのように響き続ける。魂の水を受け取るとは、この宇宙のリズムとハーモニーに溶け込み、個としての境界を超え、宇宙そのものとして響くこと、それによって宇宙すらも超えゆくことに他ならない。
水瓶座の時代が示す統合とは、無形への過程でありながら、無形なるものがその純粋さを失わずに形を伴う時代である。個人が魂の水と調和したとき、その流れは他者へと広がり、すべての存在がつながる統合の場を生み出す。人間は単なる受け手ではなく、その流れを分かち合う者であり、水の運び手である。魂の水を受け取り、それを惜しみなく注ぎはじめるとき、人類と惑星は新たな進化の局面へと移行するだろう。
これが神の「意志」であり、「目的」である。