我を滅す

何もする必要がないとか、ただ在るだけでいいとか、これらの意味を理解するのが難しい理由を考える。そして簡単に書く。我々は、瞬時に分離した個人意識をいま超越できると主張するが、簡単には受け入れがたい。そのような話はありうるだろうが、「自分にではない」と感じている。この感覚を破壊したい。

個人意識は、対象化し、私と非私を想像することで、苦痛を味わっている。多くの人はこの精妙な苦痛を感じないから暮らしていられる。分離のない融合意識が定着した者は、そこからもし外れるならば、それはすべて苦痛になるのである。ブラヴァツキーが「真我以外はすべて苦痛だ」と言ったのもこれにあたる。それは、本質であるエネルギーとフォースの衝突でしかない。

ところで、対象化する個人意識つまり見たり想像したり思考がある意識から、瞬時にそうではない意識、何でもありえない意識、つまり単なる意識だが、意識が勝手に意識に集中している意識、そして尽きせぬ泉のように絶え間なく流れくる霊的至福の意識、これはいったい何がそれを可能にしているのか。

ある超越的な波動、もしくは超越的なオーラ存在が個人の意識に浸透し、個人の意識はその個人意識を感じることが不可能になる。ここには苦痛はない。対象化し、分離の壁を築くマインドの動きがないからである。これは確かに集中状態だが、その集中を、個人ではない本質のエネルギーもしくは意志が可能にさせているのである。よって、肉体・情緒体・メンタル体というパーソナリティーは、マナス・ブッディ・アートマという高位のパーソナリティーに置き換えられるようになる。この「人知を超えた平和」の意識は、ブッディ界のものに違いない。そしてエネルギー自体は高位の意志であるゆえ、それはアートマ界のエネルギーである。つまりパーソナリティー意識は、アンターカラナが完成すると、霊的トライアド意識に変容すると言うことができ、この意識が啓示するのは真の源であるモナドである。ブラヴァツキーはそれを至高霊と呼び、それが真我だと言った。

先日、このブログの文章は難解ではなく、むしろスムーズに自身に入るというメールを頂いて嬉しかった。彼はしばらくすると私の文章を読まなくてよくなるだろう。しかし、一般的にはうまく伝達できていない。どこから融合するのかという質問もあった。眉間である。思い返してみると、このような意識がいつ安定したのか覚えていない。それはひどく徐々にだったのであろう。何をしたのかと問われるが、瞑想しただけである。どのような瞑想かと言われても、ただ静かにしていただけである。言い換えると、静かにさせる波動に融合し、諸体のフォースをそのエネルギーに溶け込ませ、それがあまりに心地よいので瞑想が好きだったというだけであるが、そういうことが自動的にできるようになるまでは、確かに色々試した。と言っても、「私は誰か」とか、「私は在る」とか、意識自体に集中しようとしたぐらいだったと思う。呼吸法はやらなかったが、聖語つまりOMは好んだ。それはマインドを魂に整列させるために使用していた。

だから、融合とは、融合させる本物の波動が、個人の波動をすべて飲み込み、本物意識でないものをすべて消し去ると言うことができるだろう。よって、こういうことを可能にさせたのは、二次的もしくは三次的ではあるかもしれないが、魂のエネルギーである。この白痴的な天才、無愛想な慈悲の主が、パーソナリティーの暗黒時代を常に導いてくれたのは言うまでもない。これはもう、体験してきていることであるから、このような話の記述がベイリーの著作にあろうが、他の聖者の書物になかろうが、どうでもいいのである。その意識では、何とも関係がない。なぜなら二元ではないから。

よって、私はただ魂に集中してきたと言えるだろう。個人意識が、魂を知るようになり、魂として魂自体に集中されるようになり、それが当たり前になり、その意識が(というよりその意志が)あらゆるそれまでの問題を解決してくれた、ということである。だから瞑想に助けられたのだから、瞑想の途方もない力を知っており、学んでいる人たちにはあまり書物や頭による研究をしてほしくなく、瞑想という実践の中に答えを見つけてほしいのである。そこに個を滅するならば、つまり滅する意志が訪れるくらいに瞑想で諸体を精製するならば、もはや学ぶことも、学ぶ者もいないのである。ただ「それ」が在る。それでいいのである。

朗読動画をあげてもらうようになってから、ときどきそれを見るため、似たような関連動画が横に出るようになってきたが、坐禅とか、瞑想法とか、最近の海外の教師の話とか、いくつか見てみたが、何ともいわく言いがたい。彼らは誠実そうで、修行的な見た目で、ほとんど厳かにさえ見える。私はそうではない。つまり、見た目は関係ないようである。また、人格的にこうあるべきだ、というのも無視できることが証明されてきた。昔は、こういうことをひっくるめて、聖人的な人にのみ、悟りとか何とかは起こるのだろうと思っていたから、それらに関しては興味もなく、己の苦痛さえなくなればそれでよく、静かにしていると苦痛がないから静かにすることが好きだった、という私の話の中に、むしろ何かしらの真実があるのである。

世には八時間とか十時間とか一律に瞑想させる寺などもあるようだが、なんと無意味なことか。坊主頭にしたり、お経を読んだり、仏典を学んだり、夜中の三時に起きて規律正しい生活をしたり、禁欲や祈りを捧げたり、どれも本来はいらないことである。ある段階では必要であるため、それらを否定はしないが、もっと本気でやってほしい。そういう見た目的な本気はいらないのである。熱心な人ほど学んで具体マインドに知識を蓄えるが、真に本気の者は、内なる嗅覚を元に思考をしずめ、つまり本物だけに集中することで偽物を追い出し、知識を全放棄し、真の主観へと抽象的に向かい続けるものである。しかし、それは日に一時間か二時間でいい。もっとしたくなったら、日に五時間ぐらいするかもしれないが、それはそうすべきだからではなく、好きだから瞑想に入っていたらそのくらい時間が経っていた、というのが正しいと思う。

この、答えが内にあるということの素晴らしさは言葉にできぬ驚きがある。答えを頭で考えたり、つまり具体マインドを使用したりすると、もう内在の神は見いだせない。瞑想は感覚を辿るものであり、最初は視覚が重要だが、最後は嗅覚が重要になる。霊的嗅覚である。だからラマナ・マハルシか誰かが、犬が主人の元に帰るときに犬は嗅覚のみを頼りにすると言ったが、これは霊的な帰還の象徴でもある。本物の主へ、内在の触覚と視覚と味覚と嗅覚を用いてたどりつかねばならない。この帰還以外に重要なことは、この世には全くないに等しいのである。

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