別の人になるという誤解

人が、何か別の人になる、という発想を人は持っているようである。そのため、「私にできるか」という考えが生まれるのだろう。

人が、この種の話に介在する余地はないのである。そもそも最初から在るものを発見するかどうか、というニュアンスの方がまだ近い。真我探求という概念自体が最初に間違っている。例えば、何時代であろうがその背後には今と同じ空間が在ったように、誰であろうが、いつであろうが、何であろうが、その背後にそれは在る。探求されるものは、常にマインドの領域内のものである。真我などの概念すら先になくならねばならない。

人間の場合、眉間から実在に融合できるが、その前までは、「自分」という感覚に苦しめられている。空間の上に無数の人がいようが、動きがあろうが、そのような映像はマインドの作り事であり、あらゆる物質よりも、その背後の空間、あるいは、あらゆる文字よりその背後の空間、といった考え方の中に、空間の上の影たちは何の意味も持たないのである。あらゆる物質には意識があるが、空間はそのような意識と関係しておらず、いわば意識の前のものである。ここについて話していることを知ってもらいたい。すると、「私が」とか「自分は」とかいった論理展開には興味を失わざるをえないだろう。それとは違う話をしているのだから。

イニシエーションという概念もまた、人や意識が次の段階に進むといった発想だが、そういうのはあるにしても、そういう話もまた実在とは関係ないのである。実在とは、「私」のことである。「私」と「実在」を別のものと考えることで、真我探求という物語を作り上げている。そんな話を無視するならば、真我しかないことが分かるだろう。だから、「真我」とか、名づけたり概念化すること自体がもはや別の方向にむかっているのである。すべて事実ではない。ある意識における事実は普遍的ではない。絶対は、あらゆる相対と無関係である。言い換えれば、我々は何かと関係していると思っており、自分とか名前とか歴史とか他人との関係とか、常に何かと関係しているが、その源を瞑想によって理解しないかぎり、違う世界で違うものを探すことになる。探すこと自体が真実においてはないとは思わないだろうか。

瞑想は、関係なくなること、関係していたものから孤立すること、それによって「孤立した統一」を知ることである。それはそもそも私ではないか。それは意識ではない。意志でもない。だからブラヴァツキーの次の言葉は正しい。

私達は、生命を霊、魂、物質と間違って分けてしまうのである。物質はこの存在界に魂が現れるための媒体であり、魂は霊が現れるためのより高い界での媒体である。そしてこの三つは、それぞれに遍満している生命によって総合される三位一体である。

シークレット・ドクトリン p.256

この文脈における「生命」が真我である。生命が根源である。世界の背後の空間のようなものである。それなしには何も存在しえないが、存在すると思われているあらゆるものと関係していないものである。しかし完全な無ではない。人間からそこに到達した場合は、意識が在る。それ自体は意識とは無関係だが、すべての間違いが去ったとき、……

この領域を描写しようとすると「それ」に深く没入してしまうため、肉体は書けなくなる。したがってここで終わることになる。

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