分離意識と融合意識の境界
分離意識と融合意識の狭間を見極めてみよう。本来自然なのは融合意識である。それは何も無理をしていない意識であり、無理をしようとする者すら存在しない意識である。では「無理」とは何なのか。それを理解するには、理(ことわり)に対する姿勢を見直す必要がある。
「ことわり」とは、神秘的に言えば「神の法則」、物理的に言えば「宇宙の秩序を形成するエネルギー」である。エネルギーは万物に浸透し、万物はそれなしには生きることも存在することもできない。この意味で、エネルギーこそが命である。秘教徒やキリスト教徒が説く物質・魂・霊の三位一体においても、実際にはエネルギーこそがすべてを貫き、現象を動かし、存在を可能ならしめている。すなわち、霊とは普遍的なエネルギーであり、それが命であり、真我なのである。
分離の錯覚と具体マインドの働き
普遍的なエネルギーに対し、分離の境界はどこから生じるのだろうか。肉体という区切りを「私」と呼ぶのではなく、区切りなき存在、唯一の実在こそを「私」と呼ぶならば、どの人間であれ、どの動物であれ、どの物質であれ、それらはすべて「私」なのだ。
しかし、具体マインドが介在すると、思想や解釈というイリュージョンによって分離が生じる。融合意識に亀裂を入れるのは、まさに具体マインドの作用であり、人間という存在はこの具体マインドの産物である。人は心と関わって生きるため、分離を生じさせる。この無理こそが、分離の本質である。
抽象マインドと純粋な意識
では、具体マインドを超えた抽象マインドの領域はどうか。メンタル界の高位三亜界には、「考える」という行為そのものが存在しない。そこは純粋な視覚の領域であり、言い換えれば純粋な意識の領域である。具体マインドの作用による思考や記憶、時間といった現象は一切存在しない。
この領域において、魂は人間的な何ものとも関係を持たない。肉体・アストラル体・低位メンタル体(具体マインドの領域)までが人間の個人意識の範囲であり、人間の意識が到達しうる最高の亜界は、メンタル界の第四亜界である。それを超えると、第三亜界に魂が見出される。魂は抽象マインドの領域に存在しており、具体マインドや個人的な心の作用を超越した領域である。
この魂の意識においては、個人意識は完全に消失する。しかし、具体マインドが生存中にそこへ到達すると、「至高なるものと融合した」と知ることになる。そのため、融合・合一・一体化という概念は、個人意識の視点に属するものとなる。ただし、具体マインドは融合の中で、自身のこれまでの人間意識が偽物であり、魂が啓示する普遍意識こそが本物であることを悟る。なぜなら、その意識の違いは、地獄と天国ほどの隔たりがあるからである。
魂の目覚めと意志の転換
魂の意識が目覚めると、それは自身を賦活する霊、すなわち普遍的なエネルギーを自身の高位我として認識するようになる。これにより、イニシエートは意識の次元から意志の次元へと移行する。すなわち、魂を超えて霊へと至らねばならないという認識に達するのだ。
しかし、もとより我々は霊であり、普遍的なエネルギーそのものである。ただ、意識が他のもの――肉体や現象といったものに向いていただけのことであり、本来、存在するのは一なる命のみである。これを見抜くならば、もはや命ならざるいかなる幻想にも関わる必要はなく、命のみに集中すること、それすなわち観照であり、それはただ在ることである。
人間意識の限界と霊への転換
なぜ人間はこれを理解するのが難しいのか。それは人間がまだ活動的であり、欲望が経験し尽くされていないからである。経験がもはや不要になるほど成熟したとき、執着や欲望はおのずと消え去り、自己すなわち真我への一点集中が唯一の欲望となる。
「したい」という意志を持つ者が、自らの「したい」を殺すことは不可能である。そのため、多くの瞑想者は「したいを殺したい」と同じ領域で葛藤し続ける。この錯覚を超えるには、個人的な欲望が条件づけられたものであることに気づかなければならない。
この理解が進むと、人は人間としての営みに飽き飽きするようになるだろう。なぜなら、それはあまりに無知であり、真の自己とは無関係なものだからである。この認識は、非自己への完全な無関心へと導く。「もはやこの者で在りたくない、在る必要がない」と思い始めるようになり、それまでの自身とは関係ないと感じるようになり、三界からの孤立が始まる。
霊の法則と現象の超越
この孤立は、個人意識からすれば自発的なものであるが、実際にはエネルギー自体がその方向へ導いているのである。したがって、悟りとは人間の寿命の終焉であり、運命の死である。それは人間の意志によるものではなく、「ことわり」の中で必然的に起こる。人が生きたくとも死ぬように、深淵を覗き込み、深淵に覗き返された者は、もはや霊的な死を免れ得ない。霊的な死のプロセスは強制になる。この死への抵抗つまりエネルギーに対するフォースの抵抗が、本質的な弟子の困難を表すものである。
すべての死は法則であり、すべての変化は「ことわり」によって生じる。我々はその決定の外部に属しており、現象世界とは一線を画している。したがって、人間の世における出来事は、エネルギーの意志の側面つまりフォース面と関係するが、そのような結果にはつねに原因が浸透するのである。このような言い方をしてもよければ、固定されたフォースには自由なエネルギーが浸透しているのである。この自由なエネルギーが真我であり、真我にとってフォース面、すなわち現象面は単なる流転の舞台、「万華鏡」のようなものにすぎず、それは傍観に値するだけである。真我は、世界や現象とは、完全に無関係なのである。