アシュラムの波動と大師の波動

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質問:様々な波動について

ジュワル・クール覚者は、魂の波動と区別して、アシュラムの波動や大師の波動に接触できるようになると述べていますが、あなたの記事における「魂の波動」とは具体的にどういうものを指し、アシュラムの波動とはどう異なるのでしょうか? さらに、アシュラムの波動と個々の覚者(大師)の波動はどのように異なるのでしょうか? これらの記述が、私が確認した限り、これまでの記事には見つかりませんでした。

さらに、こうした波動の概念が、他の霊的な書籍や覚者の教えに見られないのはなぜでしょうか? これを考えると、ジュワル・クール覚者の教えのどこまでが事実なのか疑問に感じることがあります。大師の世界、アシュラムといった世界は本当なのかということです。

最後に、ジュワル・クール覚者が「アシュラム意識」と呼ぶものと、サマーディーと呼ばれるものには、どのような違いがありますか? もし異なるものであるなら、その相違点をできるだけ詳しく説明してください。

まず簡潔に答える。

  1. 魂の波動は、頭部のセンターから流入し、眉の上のあたりまで降下し、頭部の上半球を覆うようなかたちで、リズミカルに刺激を与えてくる、頭蓋内に感じられる個人の魂の波動のことである。この波動は何人もの読者がすでに体験中であるため、証明する必要はほとんどない。
  2. アシュラムの波動は、「受け入れられた弟子」以上の弟子やイニシエートが属する大師から成るグループの波動であり、これも本質的には魂の波動だが、いわば集団的魂の波動であり、その波動領域には個人の分離した意識は存在せず、非常に素晴らしい平和と確信に満ちた意識領域であり、かつ保護された領域であり、パーソナリティーと魂を融合させることで、弟子たちはその波動領域を発見し、「アシュラム意識」と融合できるようになり、そこでブッディ界から神の計画とヒエラルキーのアイディアに接触し、メンタル界でそれを具現化し、物質界にもたらし通すことを目的とするようになる。
  3. 大師の波動は、このような波動とは異質の、より個性的な、より強い性質のものであり、弟子はその波動が送られてきたとき、その波動的な呼びかけに集中し、融合し、彼の段階に応じたものを受け取ることになる。それは最初はいつ来るか分からないものであるが、やがてより頻繁になり、最終的にはその波動に親しみ、そのオーラ領域と一体化しなければならないことを学ぶ。これはいわゆる「オーラの中の弟子」の段階に当てはまる。
  4. サマーディーとアシュラム意識の違いは、睡眠と活動の関係に似ている。あるいは、真我とその反映であるパーソナリティーの関係に喩えることもできる。

    サマーディーでは、マインドの活動が完全に停止し、純粋な沈黙と存在のみに没入する。一方、アシュラム意識は、霊的ヒエラルキーと密接に関係し、惑星、人類、神の計画を「下に降ろす」働きを担うことを可能にさせる意識状態である。ここでは、計画や意志、意識を総合的に把握し、それを地上に伝達するために機能する。したがって、アシュラム意識の中では、マインドは停止するのではなく、翻訳者・解説者・仲介者として機能し、計画のアイディアを受け取り、肉体脳に伝達するための受け皿として活動を保持している。つまり、サマーディーが生命の極致であるならば、アシュラム意識は生命から流れ出た意志を形にする場である。

なぜ過去の記事にこれらの記述がないのか

高度な内容だからである。このブログは、それ以前の「魂とパーソナリティーの融合」に焦点を当てている。ただし、あなたの指摘は重要である。まず、魂の波動と、魂グループの波動、あるいは大師のアシュラムの波動というものの区別が必要だが、まずは魂の波動と接触できなければならず、また接触が途切れることがなくならねばならず、最終的に波動そのものの振動数と自らつまり諸体を一致させ、融合させる必要がある。このようにして、解放された魂たちのグループ――それは解放された魂のパーソナリティー的側面である――や、そのようなグループを包含する大師のアシュラムを見つけることが可能になる。ゆえに、この話は現段階の弟子にはまだ高度なものであり、魂との融合が進めば自然に理解されるため、今焦点を当てるべきではない。

しかしながら、魂意識とか、魂と融合した意識というものは、本質的にグループ意識であり、またアシュラム意識であるゆえ、この領域に入る資格を得て、この意識領域がいかに素晴らしいものであるかを弟子たちは理解する必要がある。われわれが、個人的な感覚の世界から自由になり、また保護されるのはこの領域であり、神聖なる神の意志と目的に参入するという最高の喜びを知ることが、苦闘している弟子たちには真に必要な癒やしである。しかし、アシュラム意識つまりアシュラムのオーラに入るためには、個人的な問題から自由になっている必要があり、人間生活の場における波動の乱れや、低位の波動への逆戻りによって、その神聖なる場の波動を乱す心配をなくしている必要がある。そのため、まずは自身の魂と融合し、真の意味で清らかになっていなくてはならないのである。

なぜ、他の覚者の書籍にこの種の記述がないのか

もし「他の覚者」がラマナ・マハルシやクリシュナムルティを指すならば、それは彼らが 「魂とパーソナリティーの融合」 ではなく、その先にある 「生命の啓示」 に焦点を当てているためである。すなわち、彼らは個人と魂の統合ではなく、その根源――霊そのもの――の認識へと視点を向けている。

ジュワル・クール覚者も、他の覚者も、いずれも「回帰の道」について語っている。しかし、個人の回帰とは、神的な全体性への統一へと至るものであり、アシュラム的な奉仕とは、惑星ロゴスの意志と目的の表現としての側面である。この奉仕の在り方は、自然の摂理の一部であり、必然の流れといえる。

たとえば、吸気と呼気、エネルギーとフォース、魂とパーソナリティー、睡眠と活動――これらは対として存在し、同時にそれぞれが異なる表現を持つ。呼気は吸気と同じものではなく、フォースはエネルギーと同じものではなく、個人は魂と同じものではなく、活動は睡眠と同じものではない。表現は常に異なる形を取るため、覚者たちが本質的に同じ道を語っていても、同じ表現を用いる必要はない。

したがって、重要なのは 「表現の一致を求めること」ではなく、「本質的な真我に一致すること」 である。個人の意識において真我が魂であるならば、まずはその魂との融合を目指し、それを奉仕の中心に据えて生きることこそが肝要である。

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