なぜ両刃なのか
以下のジュワル・クール覚者の文章における「両刃の剣」という用語の意味について解説する。
ひとたび魂の意識をもって生活し、(このような表現が許されるならば)あの「高所」に随意に達することができるならば、形態性質の浮き沈みが彼に影響を与えることはなくなる。そのとき彼は、物質生活の界層から魂の領域へと続く狭い両刃の剣の道に気づき、もしその道を着実に辿るならば、その道は変幻極まりない感覚の世界から、明るい日光の中へと、リアリティーの世界へと彼を導くということを発見する。そのとき、生命の形態面は彼にとって単に奉仕の領域になり、感覚的な知覚の領域ではなくなる。この最後の文章を熟考し、魂として生きることを目指しなさい。そうすることで、魂から放射されている周期的な刺激の責任は自分自身にあり、それが自分自身が送り出したものであることが分かる。そして、彼は自分自身がその原因であることを知り、結果に支配されることはなくなる。
アリス・ベイリー「ホワイトマジック上」 p.87
魂意識(高所)の達成
「高所」へ到達し、融合を知り、魂として生きる者であれば、「形態性質の浮き沈みが彼に影響を与えることはなくなる」というのは事実である。人間意識であれば、個人的に良い時期と悪い時期を持ち、それによって気分や情緒といったアストラル・フォースに翻弄されるが、魂で在る限り、幸不幸の概念や情緒的反応はもはや存在せず、常に高所の素晴らしさ、美しさに在り、そこに実際に生きている。彼には良い時期も悪い時期も存在しない。
そのとき彼は、物質生活の界層から魂の領域へと続く狭い両刃の剣の道に気づく
「狭い」と感じるのは、個人と魂との連結が安定していない段階での視点に限られるだろう。霊的生活において慎重でなければ、幻影に再び飲まれ、その道が分からなくなるのである。問題なのは、その道がなぜ「両刃」なのかということである。別のところでは「剃刀の刃の道」とも表現してある。つまり、道は良いものであるが、歩み方によっては大変な危険を弟子にもたらしうる、と言っているのである。
魂への道程における危険
批判ではなく分析するならば、世に名を馳せる多くの「スピリチュアルリーダー」は、識別力に乏しい初心者の目には、あたかも覚者であるかのように映ってしまう。彼らは「高所」に達したかもしれないが、「高所」とは、一回登ればそこに恒久的に住まうことが許されるといったものではない。つまり、融合の完成には通常、高所の発見後から長い年数もしくは複数の生涯が必要である。何が言いたいかというと、まだ自我に戻るということである。
問題は、通常の自我よりも、遥かに力をもった自我として世界に戻るという点にある。例えば、力を持って世界に戻った自我の内部に、まだ劣等感や、成就できなかった欲望などが根強く眠っているとしよう。彼は、霊的な世界を求める個人たちに対しては魅力を発揮する。本を書き、人前で話し、着実に周囲に人を引き寄せる存在になるかもしれない。ここで、彼の内部の邪悪な性質がマグマのように目覚め、「世に名を揚ぐべき優れた自分」というグラマーに屈し、恍惚となる。しばしば性的堕落や金銭的堕落が見られるようになり、認められていなければ気が済まない人になり、自分よりも認められている者に恨みや嫉妬さえ抱くようになり、ひいてはその霊的ライバルを追い落とそうという衝動にすら駆られるようになる。このような流れで罪を犯した者は少なくない。
彼らは覚者に見えるかもしれないが、実際は魂の意識からはすでに切断されており、自己のグラマーに閉ざされた存在となっている。「過去に偉大な体験をした私」としてしか外の世界で己を誇ることができない存在であり、いくら求めても、己の過ちに気づきそれを修正するまでは、一時的に魂の領域へのアクセスを遮断されている。しかし、「高所」は無限の慈悲であるため、彼か彼女が改心しさえすれば、常に愛で抱擁する準備が整っている。つまり、彼らの波動次第であるが、つまらぬ所業に屈したことによるカルマ的な負債を作ったため、それに対しては賢明かつ真摯に精算せねばならない。その辛さに対してすら、「高所」は助ける準備ができている。
それは、時期尚早な高所の発見だったのである
イニシエートのような適切な教師の元で「高所」に達したならば、危険の兆候は直ちに指摘され修正される。しかし、そのような教師はほとんど世の中に存在しておらず、通常は、自身の誤りを自身で見出す力が必要である。そのためにこそ、初期段階で清い人格の修練が存在し、着実に肉体エレメンタルとアストラル・エレメンタルを統御できる者――第一と第二のイニシエーションという、融合に入る前の敷居の準備的なイニシエーションが用意されているのである。これ以前に「高所」を発見することは望ましくもなければ安全でもない。なぜなら、彼はアストラル界に対して無力だからである。
したがって、初心者は急速な成長や即時の報酬を求めるが、それが賢明ではない理由が分かるであろう。着実に自身を知り、自身を統御できて初めて、魂として魂の道を、「刃」と表現される細く切り立った道を安全に歩むことができるのである。安全に歩む者からすれば、この道は決して「両刃」ではない。メリットしかない道である。なぜなら、彼は個人にはもはや用がないからである。したがって次のような文章が続くことになる。
そのとき、生命の形態面は単に奉仕の領域になり、感覚的な知覚の領域ではなくなる
我々が見ている世界には、弟子はこの段階で個人的な用事がなくなる。つまり、個人的にしたいこと、個人的にやり残したこと、個人的に執着しないと気が済まないもの、といったものがないのである。なぜなら、魂の世界を知っているからである。その領域は、感覚知覚という苦痛を引き起こす要素から守られた「高所」であり、完全な美と至福が広がっており、自我からすれば天国であるため、二度とそこから落ちたくはないものである。
しかし、融合が完成するまでは、世界で半人前の魂として活動することがカルマ的に義務づけられている。戻された世界での意識は、融合の度合いによって、どれだけ高所から落ちるかが決まるが、真に着実に魂への道を辿っている者であれば、「高所」で知ったことを魂の同胞と分かち合うこと、「高所の意志」をいかに純粋に表現するかだけが重要であり、少しでも人類を「意志」に沿った方向へ前進させること、つまりは、秘教徒がサナット・クマラという名を当てている存在の惑星的な目的の中の垣間見た部分を遂行することだけが喜びと欲望になるのである。なぜなら、彼は自身がサナット・クマラと分離していないことを知ったからである。「高所」とはそういうことである。
「両刃の剣の道」の危険をいかにしてなくすか
簡単な基本原理を覚えておくべきである。融合意識は調和であり、そこを支配している原理が「法則」である。そして、もしこの法則から逸れるようなことがあれば、必ず苦痛を感じる。それを私はこれまで、エネルギーとフォースで説明してきた。自我とその意識世界に戻された以上、完全に一致して働くことはできないが、苦痛という警告がない範囲でならば働くことが許されている。法則的に許容される範囲から外れたとき、それが彼の段階での誤りであり、そこで弟子は自らの間違いに対し必ず苦痛を知覚する。
この種の苦痛は、一般の人間の意識が知覚できない精妙なものを意味しており、いわゆる心理的な苦痛・苦悩とは完全に異なる。エネルギーとフォースの一致具合の格差から生じる互いの衝突と摩擦に関わる苦痛である。この意味で、「真我以外はすべて苦痛」とブラヴァツキーは言ったのであり、言い換えれば、エネルギー以外はすべて苦痛である。エネルギーとは、本質的に霊のことである。霊つまり生命自体が真我である。したがって、両刃の剣の道において危険が生じるとすれば、それは神の意志との乖離という一点に尽きる。そこにこそ、唯一の痛みがあり、同時に唯一の修正の鍵もある。