自我や心は、性質上、自身を欺くものであるため、関わってはならない。また、それらと自分を同一化せざるをえない長い初期段階においては、自我という自身を条件づける力の弱体化がいずれ起こることを知り、日に一時間ないしは二時間、瞑想を続けるよりほかにない。どういう瞑想がいいというものはなく、どのような瞑想が瞑想ではないかに気づくことだけが重要である。周期的に強弱を含み送り出されてくる上からの波動とすでに接触しているならば、諸体の波動をその波動と一致させることが目標であり、それが調和にして整列であるが、覚えておくべきことは、それを真に可能にさせるのは、上からの力のみということである。多くの方が、結果を求めるために、自分つまり自我で頑張ろうとしておられる。たぶん、そうすることしかできないが、それが間違いであることにやがて気づくだろう。努力は抵抗である。一切の非努力は受容であり、調和であるが、それは無意識的な受け身状態になることではない。その場合は危険を伴わせる瞑想になるため、意識的で目覚めている必要がある。受容状態が、自覚意識を排斥するものであってはならない。
瞑想を続けると、瞑想なしには生きられなくなるだろう。言い換えると、魂を知ると、自我では生きられなくなるだろう。天国を知ると、地獄は嫌になるだろう。しかし、魂の強度に諸体は24時間耐えられないため、最初は自我に戻される必要がある。それは半分魂で半分自我のような意識というものではなく、苦しみを伴うが、苦しみを消し去るほど自我に戻ろうとするものである。一般の人を見てみると分かるが、魂でないことによる苦痛というものは感じていない。そのように、一時的に自我に没頭することで、まさに一時的であるが、上からの波動の強さから逃れるということ――休息もまた適宜取り入れるテクニックがバランス感覚を基軸に求められるだろう。そのときは、アストラル的な娯楽を自身に許し、その娯楽を続けることで今度は反対にそれ以上アストラル的であることはできない苦痛をバネに、瞑想に戻ってきてほしい。このような魂とパーソナリティーの揺れ動きが完全になくなるのは第三イニシエーション前であるため、あまり自分に厳しくしすぎないことも重要である。なぜなら、自身への霊的な厳しさは、別の形の自己劇化にして自我強化だからである。
魂として安定してくるならば、このような現象世界の揺れ動きに翻弄されることもなくなるだろう。それはどうでもいいことであるし、私には何の関係もないという魂の感覚の方が強くなるからである。だから現象や出来事、あるいは映像や感覚に個人的な責任を負うこともなくなり、興味も関心もなくなりゆくだろう。これは明確に霊的な死の兆候であり、これが起きるようになると、思考やメンタル活動というものもまた苦痛でしかなくなる。無自覚に夢を見ることすら拒絶するようになり、気づいていない状態つまり魂が統御していない意識には何であれ耐えられなくなり、瞑想状態が自然状態になり、結果という現象世界よりも魂という原因の世界ひいては存在の世界の方が身近で価値のあるものへと意識は変容するだろう。
こうして天の至福と平和を享受できるようになるまでは、ひたすら忍耐と諦念が必要である。耐えるしかない。また諦めるしかない。あくまでも(その時点で考えられる)正しさや、善なるものに固執し、与えられた環境における義務の遂行もまた善に含まれるものとし、大衆意識的な生活には第一イニシエーションを受けている者は二度と戻れないのだから、また自身で戻れないことを体験しているはずだから、引き返すことのできない者は、前進のためにその暗黒の時期を耐えるしかない。そして霊的な希望や目標も含めて諦めるしかない。そのような、まだ自我でどうこうしようとしてしまう己を責めることなく、そういうものだとして、諦めて、できるときに瞑想し、瞑想で得たものに対しては外界で正しく表現しようと努め、魂の道に己を固定させるという真の義務のみに生きねばならない。
これらは、この世の現代では普通の人には知られていない段階の話であるにも関わらず、そのような意識たちと共に過ごしつつ、邁進してゆかねばならない道である。周囲はまだ弟子の直面するアルジュナ的な問題を理解しないため、変な目で見られたりすることもあるだろうが、先を進んだ弟子たちは皆そこを通り抜けていることを思い出し、自分だけがそのような目に遭っているという感覚、そのような自己劇化に耽溺する誘惑に屈さないようにし、とにかく己のことは諦めることである。愚弄されようが、不幸が起きようが、法則つまり神の御心のままに、という姿勢、絶対的な起きることの完全性への信頼が必要である。起きることは、必要だから起きている。それが一時的に悪いものに見えようとも、数年後には、なぜそれが起こらねばならなかったかを、霊的な大団円のうちに知ることになるだろう。だから一時的な不幸に嘆く必要はない。結局のところ、すべて起こることは良いことのために起きている。世の中ではプラス思考などというが、弟子の場合は、知恵の結果、すべてが正しいことを知るだけである。自分に良いことが起きるためにポジティブに考えようとすることは弟子においてはありえず、そこに正しさへの導きを見るがゆえに結果として常にポジティブというか、事実の認識があるだけであり、すべてに完全性を見れるようになることで、我々は真我にして導き手である力に対して信頼も育つというものである。
一般の人には努力をしばしば勧めるが、弟子の場合は努力のしすぎであることが多い。自我で真剣になっていることは霊的に障害であることに気づき、行為に結果を求めるのではなく、瞑想という無為と沈黙に答えの到来を待つのである。何年かかろうが問題であろうか。宿命もまた完全であり、宿命の主は天才である。また真に愛であるお方である。したがって信頼し、どちらにせよもう戻ることができないのだから、粛々と正しさに生きることができるだけである。やがて、このような話が完全に事実であったことを知るだろう。私はその道を歩んできたから受け売りからでなく話し、また断言することができる。希望はアストラル・フォースでしかないゆえ、いずれは無意味なものとして退けられる必要があるが、最初は霊的な希望を信頼してほしい。やがて、瞑想の果実を味わうようになるや、希望などは真善美の現実と現在のなかに消え去るだろう。そのとき、もはや何も知る必要はなくなり、ただ在るだけで十分である。